Dialogue Crystallization

黄金律のはざま

みきーた
2026年7月28日

「大変なことは、看護師さんにやってもらえばいいって、息子に言われたの」
何気ない微笑みとともに、そのひとは言った。
耳をすり抜けたその言葉に、わたしは一瞬停止した。そして、屈託なく微笑みながら、
「看護師だって大変なんですよ」
と、言い返していた。
真夏の酷暑日、熱中症アラートが叫ばれる昼下がり、キリコさんの家のお風呂場でのことだった。

今日は午前も午後も入浴介助。まいったなあとため息をつくわたしに、
「背中に保冷剤を背負ってお風呂をやると、ちょっとは違うよ」
と、同じステーションのスタッフが教えてくれた。
教えられたとおりに、薄いガーゼのストールで保冷剤をくるくる巻いて、斜めがけに背中に当てる。両端を胸元でキュッと結ぶと、昔の子守りみたいだ。あまり格好はよくないけれど、ストールの薄緑色が涼しげで良い、ということにしておこう。
額から噴き出る汗は、目に入ると痛い。首に巻いていた手ぬぐいで、額の上でカチューシャのようにハチマキをした。魔女の宅急便のキキのように、見えなくもないか。
とはいえ、あまり他人には見られたくないいでたちで、車を降り、入浴介助をするためにキリコさんの家を訪れた。

インターホンを鳴らして
「こんにちはー」
と、玄関のドアを開ける。看護師が来るこの時間、鍵はかかっていない。
息子夫婦と三人暮らしのキリコさんは、日中、家ではひとりで過ごしている。
「失礼いたします」
わたしがそーっと部屋の引き戸を開けると、迎え入れてくれたキリコさんは、一瞬、目を丸くしたが、
「なかなか素敵よ、緑がきれいね」
と、目を細めて褒めてくれた。
「今日は背中に保冷剤を背負ってきました。危険な暑さなので。初めての試みです」
わけを説明すると
「まあ、そういうことだったの。工夫しているのね。こんな暑い日のお風呂は大変でしょう。いつもありがとう」
キリコさんは、にこやかに目礼をした。
「どういたしまして。効果があるといいんですけど」
そう言いながら、バッグを置いて床に正座し、体温計を取り出してベッドに腰掛けているキリコさんに渡した。キリコさんは脇の下に体温計を挟むと
「体調はいいです。食欲もあるし、水分はこのとおり、いつも飲めるようにしているわ。お通じも順調なのよ」
ベッドから手の届くテーブルの上には、水やお茶が入っているボトルが数本、置いてある。
キリコさんは慣れた様子で、訪問のたびに繰り返される質問に、先回りして答えてくれた。
長年の持病で、キリコさんの片肘は、固まったまま動かない。歩くことはできるけれど、ゆっくり、ゆっくりだ。それでも、キリコさんは娘時代から関わっているという、福祉や慈善の活動に、できる限り参加している。そこでの人との繋がりが、キリコさんの楽しみであり、生きがいなのだ。
わたしたちは、キリコさんが長くその活動に携われるように、体調やくらしのサポートをしている。今日の入浴介助は、そのひとつなのだった。
「さて、」
血圧計をしまいながらキリコさんに言った。
「血圧は正常ですし、体調は普段と変わりありません。お風呂にまいりましょうか」
「そうね、良かったわ。よろしくお願いします」
よっこらしょ。キリコさんは、お風呂に向かうために立ち上がった。

キリコさんは、家の中で、自分でできることは自分でやると自身に課している。
持病の影響で生じた足の傷も、看護師が来ない日は自分で処置している。以前はお嫁さんに手伝ってもらっていたというが、今は全て一人で完結している。
包帯を取って、泡石鹸で丁寧に傷を洗い、軟膏を塗って新しいガーゼと包帯で保護する。
ちょっと手間だが、看護師が入浴介助と一緒に処置すればなんともないことを、キリコさんは一時間以上かけて、根気よく行なっている。

ゆっくり歩くキリコさんを見守るように、一歩後ろをついていく。
ガラガラと、脱衣所のくもりガラスの引き戸を開ける。洗濯機の横の棚に目をやると、背もたれ付きのシャワーチェアと足台が並んでいた。
ああ、またか。来てすぐに、お風呂場の準備をすればよかったな。
小さなため息をついた。
狭い脱衣所でヨイショ、と服を脱ぎ始めたキリコさんにぶつからないように、慎重に棚からシャワーチェアを下ろして浴室に運ぶ。以前はあらかじめ、浴室に置かれていたのに、いつのころからか、わたしたちが運ぶようになっていた。
服を脱ぎ終えたキリコさんが、手すりにつかまり、一歩ずつ足元を確かめるように、脱衣所より一段低い浴室に足を踏み入れた。わたしはその動きに寄り添い、転ばないように腕に手を添える。キリコさんはシャワーチェアに腰を下ろし、ふぅ、と一息ついて、
「よろしくお願いします」
いつものように微笑んだ。

キリコさんの頭を泡でモコモコにしながらするおしゃべりの時間は、大人の課外授業みたいだ。
あるとき、こんな話を聞かせてくれた。幼い時に実の母を亡くしたキリコさんは、育ての母を実の母と信じて、人生の半分くらいを生きてきた。
何がきっかけだったのか、本当のことを知ったあとも、その事実を胸の奥にそっとしまい、血のつながった娘として暮らし続けた。母は旅立つ間際、キリコさんだけを枕元に呼び、静かに真実を打ち明けたという。
「でも、私にはそんなことはどうでもよかったの。妹たちとも分け隔てなく、愛情深く育ててくれた。立派な母だったわ」
「そんなこと、本当にあるんですね」
へえ、と思いながら言うと、
「でも、兄は違ったのよね」
キリコさんは少し声を落として続けた。
「兄は実の母のことをよく覚えていたから、新しい母を受け入れることが難しかったの。家族で出かけるときも、母のとなりに座ることは決してなかった。辛かったと思うわ、兄も母も。もちろん、大人になってからは、そんな素振りは見せなかったけど」
キリコさんの原家族のドラマに、何も言えないでいると
「わたしはあまりに幼かったから幸いだった。母に育ててもらったように、子どもたちを育てることもできたわ。みんなそれぞれの道で立派に生きている」
そう言って、ちょっと誇らしげにほほ笑んだ。

体中からじわじわと汗が流れるのを感じながら、キリコさんを泡立てていく。
「今日は傷を洗ってもらえるから、本当にありがたいわ。自分でやるときは全部終わるのに、どうしたって小一時間かかってしまうのよ。もう大変です」
なかなか自由がきかない身体では、やきもきすることもあるのだろう。
「そうですよね。大変だと思います。よく頑張っておられます」
「そうよ、頑張っています」
キリコさんは自分を納得させているようだ。
「私はね、大変だってほかの人には言わないの」
「そうなんですね、どうして言わないのですか」
「だって、大変だ大変だ、なんて、人が聞いたら嫌な気持ちになるでしょう。自分のことは自分でやって、人に迷惑をかけないようにしたいのよ」自立と思いやり。そうなのかもしれない。
「聖書にね、『自分がしてほしいと思うことを、人にもしてあげなさい』という言葉があるでしょう。黄金律。私は、あれを大事にしてきたの」
キリコさんらしい言葉だった。でも、誰への。

頭、身体、と順番に、傷まで洗い終えるころには、すっかり汗だくになっていた。
ズボンがぴったりと脚にまとわりついている。背中に当たる保冷剤だけが、わたしをひんやりと労わってくれた。
キリコさんは、浴室に入ったときと同じように、ヨイショと声を出して、足元を確かめながら、脱衣所に上がってきた。バスタオルでポンポンと体の水滴を吸い取り、服を着る介助をする。
キリコさんは、自分で着られる服しか着ない。
「キリコさんはいつもご自分で頑張っていらっしゃるのだから、こういうときは楽をしていいんですよ」
湯上りの湿った肌に、ひっかかる肌着を整えながら言った。
キリコさんは、ふっと顔をゆるめて
「そうね、助かるわ。ありがとう」
と、微笑んだ。
額から汗が、つつー、と流れて目に入る。痛い。
頭に巻いていた手ぬぐいの端で、目の周りを抑えた。汗と一緒に目の水分も取られてかゆくなる。
目をシバシバさせながら、浴室の片づけをする間、ガーッとドライヤーをかける音が聞こえていた。

最後に、キリコさんの身体を拭いたタオルで、シャワーチェアと足台を拭く。
たたみ半畳くらいのスペースに大人が二人、キリコさんにぶつからないように、ゆっくりとシャワーチェアを持ち上げて、もとあった棚の上に戻した。それから、チェアの上に足台をひっくり返して載せ、片づけは終わった。
重くはないが、折り畳みではないチェアを拭いて運ぶのも、ちょっとしたひと汗仕事だ。
この作業は少し前から、キリコさんの希望で看護師がするようになった。同居しているお嫁さんの負担を減らしたい、という理由からだった。日々の暮らしや家事は、お嫁さんが担っているのだという。
「できないことはお願いするしかないけれど、できるだけ、自分のことは自分でやるの」
そう言って、少し笑って
「この家では、私が一番下という意識でいるのよ」
息子夫婦と穏やかに生活していくための知恵だろうか。そう自分に言い聞かせているようだった。
だから、キリコさんの暮らしの場を整える要素のひとつとして、このひと手間を引き受けたのだった。

わたしが入浴介助用のエプロンをたたんでいると、身支度を終えたキリコさんは言った。
「チェアを上げたり下ろしたりするのは大変なのよね。今までお嫁さんがしてくれていたんだけど」
そのことなら知っている。キリコさんがお嫁さんに気を遣っていることも。
「それで、大変なことは看護師さんにやってもらえばいいって、息子に言われたの」
思わず手がとまり、キリコさんをまっすぐに見つめた。汗がひとすじ、頬をつたい滴った。

キリコさんの部屋に戻ると、傷に軟膏を塗り、ガーゼを当てた。決められた訪問時間内で終えられるようにと、前もってキリコさんが切ってくれたガーゼだ。丸めた洗いざらしの包帯を巻き、処置も終わった。
「今日はこれで終わりです。お疲れさまでした」
キリコさんを見上げて笑顔を向ける。
「いつもありがとうございます。また、よろしくお願いしますね」
キリコさんも微笑んだ。
「はい。また、明後日に」
手を振ってキリコさんの家を後にした。
車に向かう途中、日差しで腕がじりじりする。
私は頭に結んだ手ぬぐいを解き、首元にはりつく汗をぬぐった。
背中の保冷剤はすっかり融けていた。

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