Dialogue Crystallization

泥に咲く花

みきーた
2026年9月9日

第63回『小説でもどうぞ』公募に応募する掌編。応募後は非公開にします。 『おおかみのおなか』の、そのひとのおなかに石がたまる前の話。

 がちゃん、ガラガラ…
キーボックスから鍵を取り出し、実家の引き戸を開ける。
「おはよう」
玄関で声を出しても返事はない。廊下の向こうには不用品の山が見える。はあ、間の抜けたためいきをついて、わたしは母のいる部屋に向かった。
 実家には、母と兄の二人が住んでいる。決して、二人『で』住んでいるのではない。
男というだけで、兄は何もしないからだ。かろうじて、亡くなった父から引き継いだ、海の仕事はしているけれど、それ以外は何もできない。廊下には請求書の封筒が、開封されずに散らばっている。いちどなんて、電気が止まって、ヘルパーさんから連絡がきたことがあった。
「暖房が付かなくて、お母様が凍えてしまいます」
そんなことを言われても、この家に住んでいるのはわたしじゃないのに。
 母の介護が始まったとき、一日三回のヘルパーを入れる話が出たけれど、経済的に無理だった。だから、わたしは毎日、母の世話をしに来ることにした。この家のお金がどうなっているのか、わたしにはわからない。わからないから、足が出るぶんは、わたしの家計から出すしかない。楽じゃない。わたしにも家族がいて、生活があるのに。
生活保護を受ければ、介護サービスの本人負担がなくなる、と、言われたけれど、母名義のこの家に、何もしない兄が居ついている限り、無理。
行政はあてにできない。
 今朝も、わたしは、この家の敷居をまたいだ。
ものを足でよけながら廊下をすすみ、母がいる部屋の襖を引く。漂ってくる生ぬるい空気が鼻をついて、思わず息を詰めた。嫌な予感がする。
ベッドに目を向けると、そこには泥にまみれた母がいた。
「…」
ただ、見つめた。
言葉にならない。
わたしは、自分の手と足が、機械のように動いているのを感じて、はっと、我に返った。
遅れて、頭が回り始める。いったい、どこから、手を付けたらいいんだろう。
とりあえず、締め切った窓を開けた。母はビー玉みたいな目をして、口を一文字にむすんでいる。
「どうして、こんなことになっているの」
「きもち、わるかったから」
ぼそぼそと、母が口を開いた。
「だからって、オムツを外そうとすることないじゃない。なんで、わたしが来るまで待てなかったの」
感情のない目で、すっと、わたしを見る。
「こんなことして。片付けるのはわたしなのに。困らせないでよ」
心の声か、口からもれた声かはわからない。でも、言葉はわたしの中から出てきたものだった。母は何も言わない。
「もう…どうしてくれるのよ…」
絡み合ってとぐろを巻いた感情のままに、独り言ちた。泥を拡げぬようにと、手間取っていた。今からでは、病院の予約時間に間に合わない。キャンセルの電話を入れなければ。病院の予定があったことを思い出したとき、
「ありがとう…」
母のつぶやきが耳をかすめた。
その言葉はわたしにとって、意味のない文字のあつまりだった。
どうして、ありがとう、なんだろう。
感謝なんていらない。わたしが欲しいのは、『ごめん』なのに。
ずるい。
冷たい炎が背筋を走った。わたしは母の顔を見ることができなかった。
ガタン。
二階からの物音が響いた。兄が動き始めたのだろう。何かを期待するだけ無駄。いないものと思っているのに、こんな時に、存在だけ主張するなんて。
そういえば、かつて、この家に嫁いできた人がいた。知り合う間もなく、気が付いたら、いなくなっていた。辛抱が足りないなんて言われていたけれど、そうじゃない。今ならわかる。彼女が何を選んだのか。
だけれど、わたしは。
 泥を始末し、かがんでいた腰を伸ばしたとき、ふっと視線を感じて顔をあげた。
目が合ったのは、長押に並んでいる、この家にいた男たち。似たような顔をして、わたしと母を見下ろしている。泥に咲いた花をめでるように。ありがとう、と言う母をたたえるように。
この男たちも、二階の住人と同じだったのだろうか。でも、彼らには、『女』たちがいた。この家で、ひとりになった男は哀れだ。わたしは口元をゆがめた。
 バタン。
兄は勝手口の扉を開けて、出かけていった。この部屋に入ることも、玄関を通ることもしない。それでいいと育てられたのだから、何もしない。 
「お母さん、お昼にヘルパーさんが来るまで、じっとしていて。迷惑かけないで」
母に、ごはんと家から持ってきた、刻んだ野菜の煮つけを出した。
「…はい」
聞いているのか聞いていないのか、わからない返事だった。やっとの思いで拭き上げた手にスプーンを持ち、ぜんまい仕掛けの人形みたいに、ご飯を口に運んでいる。
「じゃあ、行くから」
わたしはヘルパーさんへの伝言を残して立ち上がった。
ガラガラ…がちゃん。
引き戸を閉め、鍵をキーボックスに戻した。
病院に電話をしなければ。わたしは小さくため息をついた。
歩き出すと、路地のすき間から、青い空と海が見える。その眩しさに、思わず目を細めた。

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