Dialogue Crystallization

おおかみのおなか

みきーた
2026年4月18日

訪問看護で私がいちばん多く向き合っているのは、命でも、死でもなく
、排便だ。
週に一度、たまった便を掻き出さなければいけないひとがいる。
「はい、お腹に力を入れてー。せーの!」
なんて声かけしながら、かちかちのそれを掻き出す。
そのひとも、「よっ!」なんて気合いの言葉を吐きながら、ふんばっているのがわかる。
がんばっているけれど、痛いっ!と小さな悲鳴をなんども上げる。
「あと少しですよ!」と、励ましながら続けるけれど、いたたまれない、切ない気持ちになる。そして、掘り起こした小石の山を見ながら、まるで赤ずきんちゃんの狼みたいだなと思う。
でも、あの狼は赤ずきんとおばあさんを飲み込んだ罰で石をお腹に詰められたのだ。いったい、この人は、何の罰を受けているんだろう。わからない。

昔、そのひとは農村から、海辺のこの土地にお嫁に来た。家業と家族を支えながら、子育てをして、潮風に吹かれながら、真っ黒に日焼けして働き、みんなのために温かいごはんを作り、砂と潮にまみれた服を洗い、自分のことは横において、ただひたすらに生きてきた。それなのに。
今は片付けられないものであふれた、大きな家の、あまり日の当たらないひと部屋で、ひっそりと一人、ベッドに座って過ごしている。

今日もお昼の少し前、海の向こうに富士山が見える海岸に車を停める。ずいぶん下のほうまで白くなったな、と、遠くを見やると、視界にヨットが横切っていく。
海辺の集落の細い路地の奥が、そのひとの家だ。引き戸の格子にかけられた、黒くて重いキーボックスから鍵を取り出し、ガラガラと戸を開け、中に入る。玄関先で「こんにちはー。」と声を出しても返事はない。
雑然とした玄関で、そおっと靴を脱いで、廊下をすすみ、部屋の前に立つ。ノックの代わりに「失礼します。」と声をかけて、しずしずと襖を開けると、上半身を起こしたベッドに座り、テレビから視線をはずしたそのひとと目が合った。
「こんにちはー。」と挨拶すると、小さな笑顔で、こんにちは、応じてくれた。いつもと変わらない様子にほっとして、「今日もよろしくお願いします。」と伝えると、はい、と頷かれる。
ベッドサイドテーブルには、空になった朝ごはんの器が置いてある。マグカップも空になっていて、出されたものは全部、食べられたようだ。
朝、昼、夕、と食事の時間に合わせてヘルパーや看護師などの訪問サービスが来て、身の回りの世話や食事の用意をする。時々、このシフトのなかにそのひとの子どもたちも入り、食べものや日用品を置いていく。
ひとりで、ベッドの上から、テレビの画面に視線を向けて過ごすのが、このひとの日常なのだ。
「お熱を測りましょうか。」と声をかけて体温計を手渡す。ひととおり健康状態を確認してから、「お通じのお手伝いさせてくださいね。」と伝えて、ベッドを平らにしていく。
ある程度まで平らになったところで、そのひとは慣れた手つきで、ひょい、と傍らにあるそばがらの枕を頭の下に滑り込ませた。
「では、始めますね。」と体をよいしょと横向きの姿勢に変えて、排便の介助を始める。
下衣を下げるときも、体を横向きにするときも、おしりを持ち上げたり、しっかり手でベッド柵につかまったり、協力的に身体を動かしてくれる。こんなに動けるのに、ずっとベッドの上の生活なんて、と思いながら、そのひとの息遣いとおなかの状態に集中しようとする。
もっと柔らかければ、こんなにつらい思いをしなくていいのに。お薬のことをもう一度相談してみようかな、との考えが頭をよぎる。でも、相談しても、すぐには変わらないこともわかっている。
今、わたしにできるのは、そのひとの状態を、記録に残していくことなのだ。わかって欲しいと願いを込めて。

「今日もおつかれさまでした。」と身なりを整えると、小さく微笑まれる。その顔は幼女みたいに見えた。
ベッドの上半身を起こし、ベッドサイドテーブルに、昼ごはんのコッペパンとバナナを用意する。マグカップに温めたお茶を注いで、「お通じが良くなるように、しっかり飲んでくださいね。」と手渡すと、ごくごくと飲み干された。お代わりを注いで、テーブルの上に置く。
「食べていいの?」とたずねるそのひとに、「ゆっくり召し上がってください。」と返事をして、わたしは後片付けを済ませ、記録を書き終えた。
うれしいのか、おいしいのかわからない、お人形みたいな表情で、その人はパンをほおばっている。
「また来週も来ますね。」と告げると、「ありがとう。」とにっこりした。そして、ふたたび視線をテレビに戻した。

来た時と同じようにしずかに襖をあけて部屋の外に出る。カチャカチャと引き戸の鍵を閉めたあと、キーボックスのガチャンという音が無機質に聞こえる。
静かな路地を、ふぅ、と息をつきながら歩くわたしを、丸くなって日向ぼっこをしている猫が見送ってくれた。
路地を抜けると、まぶしさにはっとする。相変わらず、空も海も青い。
来週の富士山はもっと白くなっているかな、 と思いながら、 車に乗り込む。 海辺の集落は、バックミラー越しに小さくなっていった。

Thoughts (0)

まだこの記事への考察はありません。