あの着信音が鳴りませんように。 そう祈りながら、綾は枕元のテーブルに携帯電話を置き、布団に入る。 電話を持っているだけで、落ち着いて、 くつろげるはずの自分の家は、仕事の現場と化する。
帰宅すると、大急ぎでシャワーを浴びて夕食を食べる。そして、いつ訪問に呼び出されるかわからない緊急事態に備えて、少しでも体を休めておくのだ。 今日は急変しそうな利用者さんはいなかったはず、 やれやれ、 と思いながら目を閉じるが、ちゃんと眠れる気はしない。いつ起こされるかわからないと思うと、いっそ夜通し起きていたほうがいいのでは、という考えが頭をよぎる。家にいるけど、わたしの時間じゃない。 だけれど、仕事の時間にもならない。 この仕事を始めて一年近くになる。仕事には慣れても、宅直に慣れる日は絶対に来ないだろう、と綾は思う。
はじめて電話を持つことになった平日の夜、綾は眠ることができなかった。 ふっと意識が途絶えた時間があったが、いつもよりずっと早い時間に目が冴えた。一晩じゅう緊張していたのだ。眠ったようで眠ってはいない。目覚めている間は「電話が来たらどうしよう」とびくびくして過ごしていた。
そんな気持ちで家にいるのがつらくて、早朝に出勤してしまおうと、慌てて支度をしていたとき、電話が鳴った。びくっとする。泣きたい気持ちで電話を取る。手が震えていたかもしれない。 何事もなかったみたいに「いかがなさいましたか?」と、声を出す。 それは自分へのセリフだよ、と思いながら。 電話対応で済んだけれど、体の芯から一気に消耗していた。
出勤後、看護師ではないスタッフから「眠れましたか?」と声をかけられた。徹夜をしたわけではない。綾は「ええ、まあ、」と返事をした。 スタッフの「それなら、よかったです」のひとことに、よくなんてない。宅直をやらなくていい立場の人間に何がわかるのか。綾はいら立ちを覚えた。それから、緊張して眠れなかった、とはっきり言えばよかったのだと思い直した。
次の週末、綾は休日の一日、二十四時間の宅直を持った。 休みの日にやることは早く片付けてしまおう。そう思って、寝坊もせず、朝から掃除、洗濯と淡々とこなしていく。 買い物中に電話が鳴ったらいやだ。前の晩に買いこんでおいた食材から、ひき肉を取り出して炒め始める。ジューっと肉の色が変わり始め、おいしそうなにおいが漂ってきたそのとき、無機質な電話の音が鳴り響いた。
ふう、とため息をついて、綾は火を止め、菜箸を置き、電話に出る。 終末期を自宅で過ごすひとの家族からだった。 「吸引をしても、酸素飽和度が上がらないんです。母が苦しそうで。どうしたらいいのでしょう?」 「わかりました。すぐ折り返します。」と、状況を聞き、綾はいったん電話を切った。 咄嗟に、これは行かねばなるまいと思った。フォローのスタッフに電話をかけ、判断の是非を確認する。案の定、「家族は“看護師”に吸引してもらいたいのよ。来てくれるだけで安心なのよ」と、答えが返ってきた。 どうやら、そういうものらしい。 訪問の背中を押された綾は、身支度を整え、「今から伺います」と電話で伝えて家を出た。
ナビをたよりに、初めて訪問するその家に着くと、すぐにドアが開いた。初めましての挨拶もそこそこに、そのひとの部屋に直行する。広くはないけれど、家族が介護しやすいように部屋は整えられている。 「お電話したあとも、吸引をしたら少し落ち着いたんですけど…」 電話で聞いていた時よりも数値は上がっているけれど、安心できるほどでもない。 「わたしも吸引してみますね。ちょっと失礼します」 痰がでやすいように、その人の体を傾け、家族に支えてもらいながら吸引をする。でも、なかなか安定した数値が保てない。どうしたらいいんだろう、わからない。と綾は思った。 「きてもらって、ごめんなさいね」という、その人の小さな声が聞こえた。 家を出る前、 「何かあったら電話して。近くにいるから」 と言ってくれたフォロースタッフに電話をかけると、 「対応ありがとうね」 と言いながら、ほどなく姿を見せた。 「こちらこそ、お休みの日に来てもらって、ありがとうございます」 綾は少しほっとして、肩の力が緩んだ気がした。 フォロースタッフが対応した後、彼女の判断で主治医に往診を依頼する電話をかけた。 医師が到着するまでの間、 指示された点滴の準備をする。 家族に物品のありかを尋ねると、てきぱきと取り出してくれる。フォロースタッフはそれを受け取り、慣れた手つきでつないでいく。綾は片づけをしながら、こんなふうにはできないな、と思う。
往診が終わり、医師が帰っていくと、その人は穏やかな表情で眠っていた。 家族も安心した様子で「ありがとうございました」と頭を下げる。 「大丈夫ですよ。落ち着いてよかったです」と、こちらも笑顔で頭を下げた。 「また、心配なことがあればいつでも連絡をしてください」 と一言を残して、その家を後にする。 「この人は、今晩はもう大丈夫だと思う。今日はゆっくり休んで」 フォロースタッフから声をかけられる。 「はい、ありがとうございました」 と、感謝を述べるものの、まだ休めないよと、綾は思った。 家に戻ると、フライパンの中には冷めた半焼けのひき肉。電話を受けてから二時間以上が経っていた。
夕方、五時。そろそろ早めのシャワーを浴びて、夜に備えるか。そう思って動き出したころ、また電話が鳴った。びくっとしながら半ばあきらめたような気持ちで電話に出る。 「お父さんが転んでしまって、起き上がれないんです。助けてください」 お父さんといっても、齢九十歳近くの高齢者だ。電話をかけてきたのはその奥様、同じく高齢のお母さんだった。 とりあえず、出血はしていないし、痛いところもなさそうだし、意識もある。ひとりで何とかなるかもしれない。そう思いながら綾はふたたび家を出た。いちど訪問したことがあるので、迷わず家に到着した。お父さんの退院に合わせて新築した、バリアフリーの家だ。 廊下や浴室など、あちこちに手すりも備え付けられている。 「お待たせしました。大丈夫ですか?」 玄関に入ると、すぐそこの廊下で、お父さんが丸くなって寝ていた。しっかりブランケットがかけられ、枕もしている。そんな姿を見て、綾は思わず、お母さん、最高だな。と思った。そのお母さんは泣きそうな顔で、「ありがとうございます。ありがとうございます」 と何度も頭を下げている。 聞くと、書斎でしりもちをついて立ち上がれなくなり、這って手すりのある廊下まで移動したものの、やはり起き上がれなかったのだという。移動できたくらいだから、たぶん骨折はしていない。 「起きてください」 綾はお父さんに声をかけた。それから、よいしょと体を支えて立ち上がらせる。手すりをつたって、そろりそろりと廊下を進む。痛いとも言わずに歩いている。大丈夫だ。 ベッドに横になり、体を見せてもらう。内出血もあざもない。血圧も正常。 「ありがとね」 と、お父さんは言い、再び眠ってしまった。お父さんは平和だ。
「これで大丈夫ですよ。けがもないみたいだし」 帰ろうとする綾に、お母さんはお茶を一杯すすめた。 「どうぞお気遣いなく」そう言って綾が、そそくさと玄関へ向かうと、 「もう、一人ではどうしようもできなくて…本当に…ありがとうございました」 お母さんはそう言って、両手で顔を覆ってしまった。 老老介護。 お母さんは不安で、心細くて、たまらなかったのだろう。 「そんな。泣かないでください。不安でしたね。お茶を一杯、いただいて帰ろうかな」
シンプルだけれど上質そうな家具に囲まれたリビングで、二人で熱いお茶を飲む。介護のことでも、なんでも、わからないことがあったら、いつでも電話していいことを伝えて、綾はこう言った。 「また転んじゃったら、今日みたいに枕をして、風邪ひかないように毛布を掛けて、待っていてくださいね。お母さんは、正解です」 お母さんは安心した様子で微笑んだ。
布団に入り、一日が終わった。と思いたいところだけれど、そうはいかない。 綾はいつ鳴るかわからない電話をベッドわきのテーブルに置きながら、暗澹とした気持ちになる。鬱っぽいかもしれないな、と思いながら、眠ろうと努力していると、メールの着信音とともに、電話が青白く光った。 はあ、とため息をついて画面を見ると、精神科の利用者さんからだった。 看護師を試すような内容の、この人からのメールには、返信しなくていいことになっている。 「ごめんなさいね」と、こころでつぶやいて、綾は布団にもぐった。
朝、少し早めに出勤している車の中で、電話が鳴った。 もうすぐ終わるのに…と思いながら電話に出ると、早く出勤した事務スタッフからだった。 「昨日の夜中にはるえさんから“転んじゃった”って留守電が入っていたの。見に行ってもらえる?」 綾は内心、事務所の留守電でよかったと思いながら、はるえさんの家に直行した。 キーボックスから鍵を取り出し、一人暮らしのはるえさんの家に入る。まだ、倒れていたらどうしようと思いながら、部屋に入ると、はるえさんはベッドの中にいた。 ほっとして、「ベッドに戻れたんですね」と声をかける。 「トイレに行こうとして、転んじゃった」 と舌を出しながら、はるえさんは、いたずらっこみたいに微笑んだ。進行性の病気は、もう、かなりすすんでいる。それでも彼女は、自らの意思で、自宅での暮らしを貫いている。 つい二日前に説得してやっと、ベッド脇にポータブルトイレを置かせてもらったばかりだ。 「お通じだから、家のトイレに行きたいの」 夜中に留守電を残して、綾が来るまで我慢して待っていたのだという。 転んだときに痛めた足を引きずるはるえさんを、半ば抱えるようにして歩行介助する。 もしかして、 骨折しているかもしれない。 本当はポータブルトイレでお願いしたい。 でも、たぶん、この先はそんなに長くない。 トイレに行きたいというはるえさんの希望をかなえてあげたい、と綾は思った。 ベッドに戻り、はるえさんの息が整ったところで、事務所に状況を連絡した。 「痛みがあるなら、主治医に鎮痛剤の相談をして。必要なら往診に来てもらって」 指示が下る。 綾は医師に電話をかけ、往診を依頼した。それから、指定された鎮痛剤をはるえさんに飲んでもらう。 「十時ごろに先生がいらっしゃいます。それまでにトイレに行きたくなったら、申し訳ないけど、ポータブルトイレでお願いします」 そう伝えると、はるえさんは納得した表情でうなずきながら「はい。わかりました」と、 答えてくれた。 綾はようやく 、普段の仕事へと戻っていった。
事務所に着くと、事務スタッフから「家族には連絡しておきましたよ」とやさしく伝えられた。 「ありがとうございます。ひとり暮らしだから、家族に言わないとでしたね」 家族に連絡するのを忘れていた。でも、思い出す余裕はなかったのだと、綾は思った。
宅直の電話を持つことを考えるだけで、動悸がして、気分が重くなる。 拘束されて身動きが取れないのがつらい。 電話に出られて、必要時に出動できれば、何をしていてもいい、と言う。 けれど、綾にはそんなことはできない。自由にはなれない。
綾はそんなことを、以前、同じような仕事をしていた人にこぼしたことがある。 そのとき返ってきたのは、 「看護や介護はさ、つらいなって思ったけど、夜勤をやってこそなんだよね。今の人ってそれが辛いっていうけど、突き詰めれば、自分で選択した仕事でしょ」 という言葉だった。 自分で選択した仕事。そのとおりだ。間違っていない。 嫌いではない。でも、気持ちがつらい。 これが当たり前と思うと、苦しくて、むなしくなる。
ある日、宅直をしていない看護スタッフから、「どう?」と聞かれた。 綾は、正直に「しんどい」と答えた。 「あなたなら、どうする?」と返すと、その人は、さらりと 「頑張るしかないじゃん」 と言い残して、訪問に出かけて行った。 それから、綾はこの働き方がつらいことを、口にはしなくなった。声に出すと「嫌ならやめればいい」という言葉につながっていくことを知っているからだ。
「綾の言っていたことが分かった」 以前、頑張るしかないと言っていたスタッフだった。 宅直を始めるようになった彼女は 「電話を持つ緊張感と拘束感が、メンタルに来た。休みなのに、休みじゃない」 と、ぽつりと言って、肩を落としている。綾は黙って、その肩をポンポンとたたいた。
信号が青に変わる。 バスが、ふたりの横を通り過ぎて行く。 「アイスクリーム、食べに行こうよ」 そう言うと、すこし緩んだ気がした。