「あなたのしたことは、ただの野次馬です」 と、言われて、意味がわからなかった。 一瞬、心臓がひやっとして、目の前が空白になった。
汗ばむ陽気の朝、いつものように送迎車に向かった。 今日はあかりさんとダイゴさんをお迎えに行く。ドライバーさんはあの人か。調子が良くて話し好きな三上と同乗の日は、なんとなく気が重い。些細な話が面白おかしく、すぐに拡がる。律は、車の中で、余計なおしゃべりはしたくないと思った。 「よろしくお願いします」 挨拶だけして、さっさと送迎車の後部に乗り込む。
あかりさんの家は、施設から目と鼻の先ほどの距離だ。いつも、マンションの入り口で待っていてくれる。今朝も、車椅子に乗ったあかりさんが、ニコニコしながらさかんに右手を振り回している。 「おはようございます。ご機嫌で、体調も良さそうですね」 あかりさんと、お母さんに声をかける。 「昨日から絶好調なのよ。今日もよろしくね」 笑顔でそう言ったお母さんに、行ってきますと、あかりさんの代わりに挨拶をして、送迎車のリフトを上げてゆく。運転席の後ろに、あかりさんの車椅子をしっかり固定し、ドライバーとダブルチェックをした。あかりさんは、相変わらずニコニコしながら、右手でがっつりと窓の上にある手すりを掴んでいる。 車の中で、体調が悪くなったら大変なことになる。律はあかりさんの元気な様子にほっとした。
次は、あかりさんの家から車で十分ほどの住宅地にあるダイゴさんの家だ。 律は、シートベルトを締め、おしゃべりなドライバーに話しかけられないように、そうっとあかりさんを見守った。
次の信号を過ぎればダイゴさんの家に着く、というところで道路工事をしていた。いつもは通り過ぎてしまう曲がり角のあたりで、不意に車が停まる。 ふと、角のむこうに目をやると、道端に倒れている高齢者と、付き添っている若い人が見えた。
人が倒れてる。どうしたんだろう。付き添っている人は家族か、通行人か。スマホを持っているけど、救急車呼んだのかな。わたしも行ったほうがいいかな。できることはあるのかな。重症だったらどうしよう。 送迎車には法人名がしっかり出ている。倒れている人を無視して通り過ぎて行ったと噂になったら困る。でも、送迎中だし・・・
一瞬にして、思考が頭の中をぐるぐる駆け巡った。心臓がドキドキする。 早く車が動けばいいのに。そう願ったが、車は止まったままだ。 いわゆる一般の社会経験を経て、看護師になった律は、医療や看護の経験が乏しい。そのうえ、今まで人の救助などしたことがない。 出て行って対応できずに、おかしなことになったらどうするのか。 怖い。 それでも律は、ほっておいたら後悔する気がした。 だけれど、ここで車を降りたら、送迎が遅れる。どうしたらいいんだろう。 迷っていると、運転席から間延びした、のんきな声が飛んできた。 「あれー 、人が倒れてるよ。律さん、助けに行くのー。どうすんのー。」 律の動揺も知らず、軽い調子で、運転席からぽやんとこちらをうかがっている。 余計なことを。心の奥に、とげが立つ。 めんどくさいことになった、と律は思った。 この人にかかれば、車を降りようと降りまいと、ほかの人たちに今日のできごとは言いふらされるだろう。たまったもんじゃない。どうして、こんなときに三上と同乗なのだろうと、偶然を恨みながら、律は腹をくくり、後悔しないほうを選んだ。
バッグの中から、送迎車用のスマホと酸素飽和度モニターを取り出した。それから三上に向かい、 「できることがあるかもしれません。様子を見てきます。三上さんは、先にダイゴさんの家に行って、お母さんに状況を説明してください。施設には私が電話します」と言うと、 「ああ。」 緊迫感があるのかないのか、判然としない返事が返ってきた。 あかりさんはますますご機嫌で、「イコー、イコー」と言いながら笑っている。急変することはないだろう。 律は何も確信がないまま、スマホとモニターを握って車を降り、二人に駆け寄った。
歩道に頭をのせて倒れている老婦人の額から、少し血がにじんでいる。頭を打ったのかもしれない。大事にならなければいいんだけど、と思いながら、膝をついて、 「大丈夫ですか」 と、声をかけると、小さくうなずきながら「はい…」と返事があった。 意識はしっかりしているし、酸素飽和度は問題なく、脈拍もしっかりしている。 そばにいた若い女性に、家族なのかとたずねたが、そうではなかった。歩いていて、たまたま目の前で老婦人がふらっと倒れてしまったようだ。 「びっくりして、今、救急車に電話したんですけど。大丈夫でしょうか。」 彼女からも、動揺と不安が全身からにじみ出ていた。 わたしと同じなんだ、と律は思った。 老婦人は倒れたまま、 「ごめんなさいね。迷惑をかけて。今日は暑くなるからちゃんと水を飲めって、家族に言われていたんだけど…」 と、小さな声で言った。 急な暑さに体がついていけなかったのだろうか。ふらついて転んでしまったようだ。 律は動揺を隠しながら言った。 「お話もできるし、脈もしっかりしているから大丈夫ですよ。ただ、頭を打っていたり、骨折したりしていたらいけないから、このままじっとしていましょう」 今はこう伝えることが、律の精いっぱいだった。
救急車は呼ばれている。 老婦人も、とりあえず重体ではない。 通行人でも付き添っている人がいる。 律はそう判断した。この場の安全を確認し、やることはやったと思った。だから、もう仕事に戻り、すぐそこのダイゴさんの家に行ってもいいのではないか。 だけれど、この不安そうな若い女性一人に、任せてしまっていいのだろうか。 彼女は見るからに一般会社員ふう。そして私はどう見ても、看護師。 かかわってしまった以上、律は救急車が来るまで二人と一緒にいることが正解のような気がした。はい、さようなら、とは言えなかった。 「もうすぐ救急車が来ますね。それまで一緒にいます」 律は意を決して、若い女性にそう告げた。
そのとき、ダイゴさんの家に向かった送迎車が、こちらにやってくるのが見えた。律たちのそばまで来て停まると、助手席からダイゴさんのお母さんが降りてきた。 「話は聞いたわよ。 同じ町内会だから何とかなるわ。 私が付き添ってるからもう大丈夫よ。 」 ダイゴさんのお母さんは、町内会の役員をやっている。施設の保護者会などにも積極的に参加している頼りになる人だ。 ああ、助かった。律の緊張がわずかに緩んだ。 「ダイゴは元気。体調も悪くないわ。行ってらっしゃい。」 ダイゴさんのお母さんなら大丈夫。よろしくお願いしますと交代しようとしたとき、救急車も到着した。 救急隊員に、倒れた状況や意識状態などの情報を伝え、その後の対応をダイゴさんのお母さんに託して、若い女性と律はそれぞれの仕事に向かった。 送迎車に戻ると、ダイゴさんはいつもと同じ。あかりさんも変わらずご機嫌な様子。良かった。と律は思った。 ダイゴさんの車椅子は、お母さんとドライバーで車に乗せ、固定したのだろうか。短い時間とはいえ、添乗すべき看護師が不在になっていたのだ。 律は三上に礼を言い、職場に電話を入れた。倒れている人が救急車に乗るまで付き添ったこと、到着が少し遅れることを伝えて、あかりさん、ダイゴさんとともに施設に向かった。
職場の施設に到着すると、 「大変だったね。お疲れ様」と、他部門の上司が声をかけてくれた。 律は、無事に戻れたことに少しほっとして答えた。 「いえ、私は付き添っていただけでしたので。ご心配をおかけしてすみません」 その横では、直属の師長が何も言わずに立っている。表情のないその目を見て、律のこころはわずかにざわついた。
次々到着する利用者さんの受け入れが落ち着いたころ、師長から「ちょっといいかしら」と声をかけられた。律は、朝のことだな。と思った。何を言われるんだろう。心の中でため息をつきながら、別室で上司と向かい合った。 上司はテーブルの上にノートを広げると、律が時系列で語る、朝の状況をたんたんと書き込んでいく。まるで事情聴取だ。お疲れ様も、大変だったねもなかった。 おおごとにはならなかったものの、倒れている人の救護にかかわるなんてはじめてのこと。 知らんぷりはできないと、勇気をだして、不安ながらも車を降りたのだ。どこかでねぎらいの言葉を期待していたのかもしれない。 ノートから目を上げて上司は言った。 「状況はわかりました。もし、倒れていた人が重症だったらどうしたのですか」 律は、大きな不安と、同じ看護師ならわかってくれるのではないかと小さな期待をのせてこう答えた。 「わたしは・・経験が浅いので・・本当に重症だったら、どうしていいかわかりません。 ここに・・施設に電話して・・どうしたらいいのか、指示を仰ぎたいとおもいました」 そんな律に師長から返ってきた言葉は、 「電話は利用者さんのためにあるものです。通りすがりの人を助けるためにあるものではありません。私たちは、いつでも利用者さんの安全を最優先にしなければいけません。ですから、車を降りるべきではありませんでした。利用者さんを最優先にせず、車を降りたのは責任放棄です」 律は思った。 むやみに車を降りたのではない。 利用者さんの安全を確認しての行動だったけれど、それはいけないことだった。守るべきものは組織なのだ。 人として、当たり前のことをしただけだと思っていた。 師長は、看護師は社会資源。24時間365日看護師でいるべきだと、誇らしげに語っていたではないか。 とてもむなしかった。
続けて師長は、 「付き添っている人がいるのにわざわざ行って、あなたのしたことは、ただの野次馬です」 この人は何を言っているんだろう。 喉の奥から胸に向かって氷の塊が落ちていくような、ヒヤッとした感覚がした。数秒の沈黙のあと、律はようやく 「野次馬・・ですか」と、静かに聞き返した。 師長ははっとした様子で、「言いすぎました」と目を伏せた。そして、 「看護師として、倒れている人を助けなければ、という使命感は理解します。でも、あなた、ちょっと調子に乗っているんじゃない」 と言った。あとから思えば、その目には、かつて自分が手放した正義感を否定するような色がにじんでいたのかもしれない。 「え、調子になんて乗っていません。どうしてですか」 思わぬ言葉に驚いて、律が聞き返すと 「ちがうなら、いいの」 と言って、上司はノートを閉じた。 部屋から出ると、いつも陽気な看護スタッフが 「りっちゃん、人助けしたんだって。かっこいい。私にはできないわー 。」 と、声をかけてきた。 ほかの親しいスタッフも 「大丈夫だった。すごい勇気だね」 「私には怖くてできない」 と、そっと話しかけてくる。 わたしは誰にも話していないのに、どうしてみんな知っているんだろう。 なんだか嫌だなあ、と不思議に思いながら、律は、内心のイライラした気持ちを抑えられずに答えた。 「救助ってほどのことじゃなかったし、余計なことだったみたいです」 そして、親しいスタッフに、 「インシデントレポートを書けって」 と、師長から野次馬と言われたことを耳打ちすると、驚いたような、憐れむような表情をして、 「三上さんがね、律さんはすごい。ってみんなに話してる」 と、教えてくれた。 律は、 「そういうの、すごく迷惑」と眉根を寄せて、ため息をついた。
翌朝、律はまた三上の運転する送迎車に同乗した。 不機嫌を醸し出していることを律は自覚していた。 それでも、いつもどおりに 「おはようございます。よろしくおねがいします」と言った。 車に乗り込むやいなや、三上は、 「律さん、昨日のことはみんなに話したの」 と興奮した様子で話しかけてきた。 「話すわけないじゃないですか」 律が言い返すと、三上は不思議そうな顔をして言った。 「え、なんでみんなに話さないの?」 律は内心で小さく毒づいた。(馬鹿じゃないのか) 口には出せないけれど、軽すぎる三上の言動に呆れていた。 三上はまた、調子のよい、浮かれた表情に戻って、 「律さん、すげえよ。かっこいいよ。 ”わたし行ってきます”って車から颯爽と降りて行って。 ヒーローだよ」 などと、べらべら話し始めた。 律はため息をついた。(もう、この人には何を言っても無駄だ)。 そして、「もうその話はやめてください」 と、静かに言い、それきり口を閉ざした。 そのあとも三上は、送迎の車の中で、他のスタッフにあの日の話を誇らしげに語ってい たようだ。 陽気な看護スタッフが、 「今日もヒーローだって言ってたよー」と、軽く伝えてくれた。 一週間ほどたったある日、送迎車に同乗した三上は、同じ話を嬉しそうに話し始めた。 律は、しばらく黙って聞いていたが、低い声で、 「いい加減にしてください。困ります」 と言った。 三上は、「なんで。かっこよかったのに。わかんねえな」とブツブツ言いながら、話をやめた。 それ以降、三上は律の前では、あの日のできごとを話さなくなった。
師長からの“事情聴取”のあと、 この人とは一緒に働けない、 と思った律も、 あかりさんやダイゴさん、利用者の人たちの屈託のない笑顔に支えられて数年が過ぎた。 三上とは、挨拶のみで淡々と仕事をこなす関係になり、あれから、彼が律の前で軽口を叩くことはなかった。 師長は少し前に他部署に異動していった。 そして、律も次の場所に進む決心をした。 退職の挨拶に安全管理室を尋ねると、室長は会話の中で、 「律さんと言えば、人命救助よねー」と、懐かしそうに笑った。 律は、 「人命救助だなんて、大げさなことじゃないです。その節はご迷惑をおかけしました」と、 返した。 室長は笑顔で続ける。 「それにしても、すごく勇気のある行動だったわよ。もし、何かあったら、大変なことになるからね」 律は、少し苦笑して、 「実は、そこまでリスクを考えていたわけではないのですが・・」 そしてきっぱりと続けた。 「人として、当たり前のことをしただけです」 それから、(一度、言ってみたかったんだよね、このセリフ)と思って、こころの中で、にやりとした。