毎週木曜日の午前中、三十分だけ開くコーヒー店がある。 店主はお髭とメガネがお似合いのモリイさん。 お客は、 エリさんとわたしのふたりだけだ。 わたしたちは一週間おきに、かわりばんこに、その店を訪れている。
ゆるくくねった坂道沿いに、家が建ち並ぶ。そのなかの、白い瀟洒な一軒家がモリイさんの家だ。道路に面した駐車場に注意深く車を停め、真鍮の門を開ける。カランと鳴る音を聞くと、もう二週間経ったのか、早いな、と思う。 階段を三段上がってインターホンを押す。ほどなく、ガラス張りの扉の向こうにモリイさんが現れ、「いらっしゃーい」と、いつもと同じ笑顔でわたしを迎えてくれた。 「おはようございます」と、玄関で靴を脱ぐ。足元にはシンプルだけど上質そうな、黒いスリッパが用意されている。なんのことはない、ジャージとセーター姿だけれど、モリイさんが着ていると、すっきりとセンスよく見えるのはなぜだろう。
「さあ、入って。今、コーヒーを淹れるからね」 そう言うと、モリイさんはキッチンへと消えていく。 わたしはスリッパに足を入れ、キッチンと反対側の扉を開けて、リビングに入った。 エプロンを着けてナイフを手にした、ブタのお肉屋さんの置き物と目が合い、ふと笑ってしまう。モリイさんのあたまの中からつくり出されたキャラクターだ。 つくりつけの棚に置かれた、よく手入れされたオーディオセットからはローカルエフエムが流れてくる。 その横には、満開の桜の木の下で、嬉しそうに、優しく笑った奥さまの写真。その笑顔に一瞬、うつむいてしまう。 そばには控えめで深いピンク色の花が、優雅な曲線をした、濃い青銅色の一輪挿しに添えられている。数年前にたたんでしまわれたという、奥さまのご実家の鋳物工場で作られた一輪挿しだ。 モデルルームみたいにすっきりしているけれど、ところどころにユーモアと生活感が散らばっている。モリイさんの家は、なんとなくこころがゆるりとする。
写真の奥さまに一礼して、ソファに腰掛けると、 「お待たせー。」 と、 モリイさんがコーヒーを運んできてくれた。 ほんのりと甘く、 熱すぎず、 ぬるすぎず、 柔らかく喉を潤してくれる。 「お砂糖を少し入れたんだけど、よかったかな。ぼくは、ちょっと甘いのが美味しいと思うんだよね」 いつもはブラックで飲むコーヒーだが、モリイさんにそう言われると、甘いコーヒーはとても美味しい。なんだか特別な飲み物をいただいた気持ちになる。 ほお、と安らぎのため息をつきながらコーヒーを飲み干すと、 「ご馳走様でした。さて、始めましょうか」と、モリイさんに声をかけ、バッグから体温計を取り出して手渡した。 「一週間、お変わりありませんでしたか」 と、訊ねると、モリイさんは、 「今週も元気、元気。家の片付けがはかどったよ」と笑顔をみせた。 どうりで、部屋の中の風通しが良くなった気がしたわけだ。 聴診器を外しながら、 「血圧もいい感じだし、体調は問題ないですね」と、伝えると、 「うん、そうだろう。休肝日のいいつけはちゃんと守っているよ。最近は自分で作るご飯がおいしくってね、よく作っているんだよ。」 子どもみたいに目をキラキラさせた。 「わあ、自炊ですか。何を作っているんですか」 この前までは、最近の冷凍食品は、よくできていて美味しいのだと言っていた。何がきっかけで自分で作るようになったのだろう。 「よく作るのは野菜炒め。豚バラと一緒にネギとかニンジンとかをパッと炒めて、オイス ターソースをさっと垂らすと、それだけでおいしいんだよね」 そのほかにも、麻婆豆腐や焼きそばなど、市販の調理材料に野菜を足して、作ることもあると教えてくれた。 片付けられた部屋に、野菜中心の食生活。モリイさんは自分のことを気遣いながら、ひとりでの日々を過ごしているようだった。
モリイさんをはじめて訪問したのは、ちょうど一年前、初夏のころだ。 同じ年の春先、奥様が旅立った。 モリイさんは長い間、 ひとりで介護を続けていた。 そのあと、 ご自身も体を壊して入院し、体重もずいぶん落ちてしまったという。ようやく体調を立て直し、退院して間もないころから、わたしたちはモリイさんを訪ねている。 そしていつからか、コーヒーが用意されるようになった。
温めたタオルを背中に当てると、 「ふうー。気持ちいいねえ」 モリイさんは目を細めた。 それから、奥さまの愛用品だった化粧水を、背中にピタピタと惜しみなくすり込んだ。 「背中は自分じゃ手が届かないから、本当にありがたいよ」 モリイさんは、背中以外は自分で化粧水をつけているのだという。 普通なら保湿用クリームを塗るのだろうけれど、 「ぼくのために残してくれたのかなあ」 と、箱いっぱいに残っていた奥様の化粧水を、全身にそのまま使っている。そのせいだろうか、モリイさんの肌は、お歳のわりに艶やかだ。
「はい。終わりました」と声をかけて、まくっていたシャツとセーターをもとに戻した。 モリイさんは立ち上がると、二杯目のコーヒーを持ってきてくれた。二杯目もまた、ほんのり甘い。 「片付け、ずいぶん頑張られたみたいですね。ますますお部屋がスッキリした感じがします」 コーヒーをすすりながら言うと、モリイさんは 「思い切って、使わないものは全部、整理してしまおうと思ってさ。家内が好きで使って いた花瓶や食器、ぼく一人じゃ使わないから、欲しいという人にあげちゃった」 そういえば、以前は飾り棚に置いてあったガラスのボウルが無くなっている。そう思いながら、言葉の続きを聞く。 「二階には、ぼくが集めたレコードがわんさかあったんだけど、それもほとんど持って行ってもらったよ。あと、家内の服とか、使わない布団とか、結構片付けたね」 「ひとりでされたんですか」と聞くと、 「いや、知り合いの片付けコンサルタントに来てもらってね。相談しながら片付けていったんだよ」という答えが返ってきた。 「使わないベッドや収納家具は、業者に引き取ってもらったんだけど、 “こんなに片付いている家は初めてです”って、びっくりしていたよ」 と満足そうにモリイさんは笑った。 そういえば、 冷蔵庫も壊れてしまって、 ひとまわり小さいものに買い替えたと言っていた。
モリイさんの暮らしの大きさが、少しずつ変わっていく気がした。 寂しくはないのだろうか。 ふと思い、気になってたずねると、モリイさんは言った。 「このごろさ、家内がいつもそこにいて、ぼくを見張っているような気がするんだよ」 「え、見張ってるんですか」 部屋中に、奥様をはじめ、ご家族の写真が飾られている。 「だから、いつも見られているような気持ちになっちゃうのかもしれないけど」 ふと、部屋を見渡すと、奥様がそこに座っているような気がした。 モリイさんは続けた。 「部屋が片付いていなかったり、いい加減なものを食べていると“ちゃんとしなさい”って怒られる気がするんだよね」 そう言って、いたずらっぽく肩をすくめながら、モリイさんは少し照れたように笑った。 その目はどこかさみしげで、やわらかかった。 「写真に向かって、“ただいま”って挨拶しても、“おかえり”って声が聞こえないのは寂しいね」
そろそろ三十分が過ぎようとしていた。閉店の時間だ。 「今日はこれで失礼します。おいしいコーヒーをごちそうさまでした。ありがとうございました。」 わたしはバッグを持って立ち上がった。写真の奥様に一礼し、モリイさんに言いたいことがありましたら、わたしたちにそっと言葉を預けてもらえますように、と、ひそかに願った。 モリイさんも立ち上がり、 「こちらこそ、ありがとう。週に一回、来てもらえるのが張り合いになるよ」 と、玄関まで見送ってくれた。 「来週はエリさんが来ますので、またよろしくお願いします」 そう言って扉を開けると、背後から 「車の運転に気を付けるんだよ」と声がした。 振り返って、モリイさんに軽く手を振り、「では、また」と外に出た。 カラン。 門を閉めると、坂道のむこうの、山のみどりが風にそよいでいた。 次の週、モリイさんの訪問から戻ったエリさんに、 「モリイさんはお変わりありませんでしたか」と聞いてみた。 エリさんは、 「いつもと変わらなかったよ。今日はね、紅茶が出てきた。おいしかったよー」 と言った。 「へえ、紅茶ですか」 モリイさんと紅茶。なんとなく意外な気がした。 そして、新メニューを口にしたエリさんが少しうらやましかった。 来週は、紅茶を注文してみようかな。 ふと、奥様の笑顔が浮かんだ。 窓の外で、新緑が風にゆれていた。