「サヤさんには看護業務を依頼しないでください。」 いつものように朝礼が始まり、本日の予定が読み上げられた。 最後に手を挙げた師長の一言に、それまで、なんとなく話を聞いていた礼も、思わず顔を上げて周りを見渡した。職場の空気は変わらない。看護スタッフも介護スタッフも、何でもないことを聞くかのように立っているだけだった。 サヤもその場にいた。顔色を変えていないように見えた。しかし、サヤの中には変えるものが何もない、空っぽだったのかもしれないと、あとで思った。 朝礼が終わり、サヤは師長とともに姿を消した。となりにいた看護師が礼に 「今の、ひどくない?どうして?看護師は守ってもらえないんだね」 と、悲しみとも怒りともわからない表情で言った。礼は、奇襲をくらったあとのように、何も考えられなかった。 「はい…。何と言ったらいいのか、すごく、嫌な感じです」 ひとごとではない感じがして、息が詰まり、こころの中の言葉を口にするのがやっとだった。 それから、二人は慰めあうように背中をさすりあった。 こんな状況なのに、思いを分かち合える瞬間があることは、救いだと思った。
礼とサヤは、長く社会で働いてから、看護師に転職した。 年齢はベテランだけれど、看護師としてはまだ経験が少ない。 同じ立場の仲間として、そっと励ましあってきた。 ロッカーに、いつからか小さなお菓子が入っていた。どちらからともなく、忍ばせた。 そんなサヤは、このごろ 「子どもの夜泣きが多くて寝不足で、仕事に来てもミスが多くて」 と、浮かない表情でため息をつきながら話していた。 頼れる家族がいない環境で、二歳になったばかりの子どもを保育園に預け、夫婦二人で育てながら働いていた。
少しまえ、利用者さんの酸素ボンベを閉じたまま、送迎してしまったインシデントがあり、サヤもその利用者さんにかかわっていた。 酸素ボンベの扱いは、ダブルチェックをすることが決まりだ。しかしこの時はそれが機能していなかった。サヤが開き忘れたボンベは確認されないまま、利用者さんとともに家に送られてしまった。 確認をしなかったリーダースタッフは、師長にサヤひとりの責任ではないことを訴えたが、経験の浅いサヤのミスとして片付けられてしまった。 そして、その日もサヤは疲れていたのだろう。エレベーターに利用者さんを乗せたあと、操作を誤り、利用者さんだけ乗せたまま、二階に送ってしまった。 サヤはエレベーターを追いかけて慌てて階段を駆け上り、上がってきた利用者さんを迎えることができた。 だが偶然、ひとりの医師がその事態を目にしていた。医師は、利用者の命にかかわりかねないことと師長に報告した。 そして、師長はサヤを「利用者の安全を守ることができない」と、判断し、サヤに看護業務をさせないことにしたのだった。
仕事の合間、礼は利用者のいる部屋を離れ、パソコン室で事務仕事をしているサヤのところへ行った。部屋にはサヤ以外に人はいなかった。いちばん端のパソコンの前に座っているサヤに、どうやって声をかければよいのだろうと落ち着かない気持ちで 「大丈夫?」 と声をかけた。 サヤは思ったより冷静だった。そして、 「師長からは前もって、看護業務から離れてもらうことと、それを職場に周知するってことは言われていたんだ」と言った。 「でも」 すこし間をおいてサヤは続けた。 「わたしがいる前で、職場の皆に話すとは思っていなかった」 礼は何も言わず、サヤのとなりに座った。 「師長にね、 『どうして子ども一人なのに、そんなに大変なの』 『私は子ども三人育てながら、育児休業を取らずに働いてきた』 『看護師は休業しても、やめてもいけない』 って言われたんだ」 「えっ」 どういうことなのかと礼は思った。 「師長は義理のお母さんと同居してるんだって。ずっと面倒みてもらいながら働いてきたって。だから、サヤさんは親に頼れないのかって言うんだけど。うちはずっと母子家庭だったし、母は県外。今、新しいパートナーとの生活を始めたところで簡単に頼れるわけじゃない」 サヤの空っぽの目に、少しだけ涙がにじんでいた。 「師長は恵まれてる。みんなが師長みたいにできるわけじゃない」 「うん」 「看護師をやめちゃいけないって言うけど、わたしに看護業務をさせないで、矛盾してる」 サヤは看護業務に戻らないまま、担当していた利用者の報告書を仕上げ、職場のスタッフひとりひとりに感謝のメッセージをつづり、一か月後に退職した。 サヤの空っぽな背中を見送りながら、礼はしばらく動けなかった。もがいても、ずぶずぶと沈んでいく感覚がよみがえる。自分が病院を追われた日のことを思い出していた。 そして、職場は相変わらず人手が足りない。ますます業務に追われていた。
この職場に来る前、礼は看護師として初めて就職した病院を一年足らずで去っている。 忙しさや業務の煩雑さ、厳しさを覚悟していたものの、想像を超える状況に、心と身体がついていかなかった。 学校でひととおり学んではきたが、それは最低限の知識だ。 仕事は、現場に出て働いてみて、初めて知ることや学ぶことのほうが多い。 礼は経験からそう考えていた。 しかし、病院では「学校で何を勉強してきたのか」と言われ、自信がなく不安だとも、知らないことを知らないとも言えなかった。 それでも、間違えのないようにと、内心びくびくしながらも質問をすると、ため息をつかれたり、嫌味を言われたりもした。攻撃にも似たそれらの言葉に、礼は次第に知らないことを口にするのが怖くなっていった。 ひとり、勉強をしていても身になっていく気はしなかった。 「わたしは本当に看護師なんだろうか」 と自問自答しながら、危うい経験と知識で、業務の流れを渡ろうとする礼は、 「患者じゃなくて自分を守っている」と言われた。 周囲の言葉は日本語のはずなのに、礼の中に入ってこない。理解できない外国語を話しているようだった。 師長から 「資質がない」と言われ、 教育を担当していた看護師は 「いてもいなくても同じ。仕事ができなくても、愛嬌と要領がよければやっていける。考えたほうがいい」 と礼を突き放した。 そして「できないことをできると言う、患者に不利益な存在」として、役割も居場所も失ったのだった。 若い同期たちは、苦労を見せながらも受け入れられているように見えた。 社会人を経て看護師になったから、馴染めなかったのだろうか。それとも、自分自身の問題だったのだろうか。礼には、最後までよくわからなかった。
病院のあとに就職したのが今の施設だ。 面接をした看護部長は、礼が看護師として経験が浅いことも、一般での社会経験が長いことも、快く受け入れ、 「礼さんとおなじように、社会人から看護師になってまだ日が浅いスタッフもいるのよ」 と穏やかに言った。 おそるおそる働いてみると、看護スタッフも、介護スタッフも新人の礼に配慮して「大丈夫ですか」と、よく声をかけてくれた。 わからないことだらけの職場で、人に聞くことに恐れをもっていた礼も、だんだんと「これを教えてもらえますか」と、言えるようになっていった。 少しずつだが、できることが増えていく。 前よりは看護師らしくなれたかもしれない。礼の心に小さな光が芽生えはじめた。 同じころ、礼より一年ばかり早くこの職場で働きはじめていたサヤは、時短勤務に変えたばかりで、なれない育児と仕事の両立に苦戦しているようだった。時々、物陰でため息をついている姿を見かけた。師長もそれに気づいていないわけではなかった。しかし、廊下の端でうつむくサヤに向ける視線は、まるで異人を見る目だ、と礼は思った。 子どもが熱を出したときのみではなく、サヤ自身も体調を崩して休みがちなことに対して、師長から 「社会人失格です」 と、言われていたことを後から知った。礼は喉の奥が凍っていくような、背筋に冷たい憤りが走っていく感覚を覚えた。 社会人失格。 サヤより前に転職していったスタッフも、師長からそう言われていた。 礼たちと同じように、一般社会での経験のあと、看護師になった人だった。 今、一緒に働いている職場のスタッフたちは、礼の経歴にこだわらずにかかわってくれる。しかし、師長は違う。師長が認める社会人がわからない。礼は、師長を前にするとき、心が固くなるように感じていた。
ある日、礼は師長に声をかけられた。 何かやったかな、嫌だな、とモヤモヤした気持ちで師長と向き合うと、師長はいつもの温度を感じない表情でこう言った。 「礼さん、木曜日に定期的に日勤希望を出しているのは何かあるのかしら」 礼は今月から、隔週木曜の夜に、カウンセリングの講座を受講し始めた。 講座では、人のこころの問題と、話を聴くことについて学んでいた。 学校では学ばないことだったが、この仕事をとおして人とかかわるうちに、そうした学びの必要性を感じるようになっていた。 遅番の勤務でも少し遅れて講座に行くことはできるが、日勤勤務なら遅れずに出席できる。だから、講座のある木曜は日勤の希望を出していたのだ。 「月に二回、木曜の夜に習い事があるので、日勤を希望しました」 礼が答えると師長は 「その習い事、土日に変更することはできないのかしら」 一瞬、師長との間の空気が止まった気がした。 終業後の時間に何をしようと、個人の自由ではないか。なぜ、そんなことを口出しするのか。 礼には師長の言っている意味がわからなかった。 「いえ、木曜固定の講座なのでそれはできません。遅番上がりだと、少し遅れてしまうので、できれば日勤が良くて、希望したのですが。もし、急な残業などが発生したら、その時は仕事を優先しますし、仕事が終わったあとに予定を入れることは問題ないと思うのですが」 毎週ならとにかく、隔週だ。しかも休みの希望ではない。その日は遅番を避けたかっただけだ。思っていることを伝えると、 「礼さんは、常勤には向いていませんね」 師長の目はさらに冷えたものになった。 「パワハラだと思われても構いません」 これからパワハラを口にするってことか。前置きをすればいいと思っているのだろうか。心臓が嫌な感じにどくどくするのを感じながら、平静を装い身構える。 「看護師は平日に、仕事のあとに習い事などしないものです。何か起きた時のために待機していなければいけないのです」 オンコールでもなく終業後も待機、そんなことは聞いたことがない。ますます意味がわからない。礼がポカンとしていると、師長は続けて 「もう、申し込んでしまっているなら仕方ないわね。その習い事は続けるつもりなのかしら。看護師は自分の時間を自由に使うものじゃないんです。自己犠牲が必要なの」 と、諭すように言った。 師長の言葉は日本語なのに、遠い異国の教義を聞いているように感じた。 「私は子どもを義母にまかせて働いてきたから、持病があることに気づいてあげられなかった」 ふっと漏らしたひと言に、礼ははっとした。 師長はうつむいたまま、 「あなたは看護師がどういうものなのか、まだ理解していないみたいね」 と言い残して、師長はその場を離れていった。 どうやら、師長が考える看護師と、わたしのそれとは違うようだ。 礼の中は、冷たい灰色のもやでいっぱいになっていた。
礼は主任看護師に、月二回、終業後に予定を入れることは問題なのかを相談してみた。すると、主任は首をかしげながら、 「んー。大丈夫なんじゃないかな」 と言った。 しかし、主任の言葉を聞いても、もやは消えなかった。月に二度、仕事のあとに予定を入れることがいけないことなのか、礼にはわからなかった。師長からの「看護師がどういうものか理解していない」という言葉だけが、飲み込めない棘が刺さったように残っていた。 講座のある日は日勤のことも、遅番のこともあった。師長は仕事を終わらせて職場を後にする礼を、それ以上咎めることはなかった。
そんなある日、年一回の部長との面談が行われた。礼は、経験は浅いながらも周囲の協力を得て、毎日なんとか仕事に取り組めていると報告した。 部長はにこやかに、礼の近況に耳を傾けてくれる。礼は、思い切ってずっと気になっていたことをたずねてみた。 「退職したサヤさんのことなんですけど」 部長はうなずいて聞いている。 「看護業務をしてはいけないことを、みんなの前で言わなくてもよかったのではないでしょうか。わたしやほかの人たちも、聞くだけでも辛かったですし、傷つきました」 あの時、看護スタッフと慰めあった感触を思い出す。 部長は深くうなずくと 「そうね。嫌な思いをさせてしまったわね。ごめんなさいね」 と言った。そして、 「ただね」 少し言葉を選ぶように視線を落とした。 「礼さんやほかの人たちには周知していなかったんだけど、その前にサヤさんには看護業務から外れてもらうことは伝えてあったの」 「え、そうだったんですか」 「そうなの」 「じゃあ、どうして、わざわざみんなのいる前で、また言わなくてはいけなかったのですか」 礼は疑問をぶつけた。 「サヤさんに看護業務はしないように伝えたあとに、介護スタッフから『吸引お願いします』って声をかけられて『はーい』って答えて、吸引をしているところを師長が見つけたの。それで、皆に周知することになったのよ」 サヤは自分からは話さなかったけれど、サヤにも落ち度がなかったわけではないのだ。 「そんなことがあったのですね。でも、何も知らないスタッフに頼まれたら、断れないと思います」 礼は釈然としなかった。忙しい時間に、サヤが一生懸命にできることをしようと動き回る姿が脳裏に浮かんだ。慌ただしくしているときに看護師がいたら、看護業務を頼まれるのは必然だ。それを断るなんて、できない。そんなことをしたら、周りの人たちも訝しがるだろう。 「わたしも難しいことだったと思うわ」 ため息がちに部長は続けた。 「だけど師長はね、あの時のサヤさんは『私はできません』と自分で断らなければいけなかった、と考えているの。それができずに指示を守れなかったのだから、利用者さんには触れないでもらう。周知するしかないってね」 サヤは追い詰められていた。礼は喉が締めつけられるように感じた。 「でも、本人がいるところで言わなくても良かったかもしれないわね」 部長はぽろりとこぼしたあと、 「それで、来年のことなんだけど」 と、顔をあげて礼に微笑みかけた。 「礼さん、仕事にずいぶんと慣れてきたみたいだから、別部署への異動も頭にいれておいてね。今度の師長との面談でも、話があると思うわ」 礼も思わず顔をあげた。部長と師長とでは、自分の見え方にだいぶ差があるようだ。好意的に評価してもらえたのはありがたかったが、やっと今の仕事に慣れてきたところなのに。心をざわつかせながら、面談室を後にした。
部長との面談から数日後、別部署の南棟から異動してきたスタッフに、異動の打診があったことを打ち明けた。礼はここでの仕事に慣れてきたばかりで、他部署での業務に対応してゆけるのか、不安があると話すと、 「礼さん、ちゃんとできてる。南棟ならやっていけるから大丈夫よ」 と言ってくれた。 一緒に働いているスタッフからの、大丈夫、というひとことは心強く感じた。 「南棟は親切な人ばかりで、雰囲気も良くて働きやすかったよ。もし、異動になったらみんなに礼さんのこと、話しておくね」 「ありがとうございます。南棟だといいんですけど。西棟だったら、どうでしょう」 必ず南棟に行けるとは限らない。もう一つ、別の部署があることが気になった。 「西棟はね。きつい人たちが幅を利かせているからか、退職者が多くて、新しい人が来てもすぐ辞めていくんだって。いつもピリピリしていて雰囲気が悪いから、行かないほうがいいよ」 「行かないほうがいいって、異動先は選べないと思うんですけど」 「南棟だったら異動しますって、逆指名すればいいのよ」 あっけらかんとした彼女のアドバイスに、なるほど、と気が軽くなった。 「そうか、やってみます」 少し、勇気がわいてきた。
翌月、師長との面談が行われた。 異動の話をされるだろうか。礼は肩に力が入るのをこらえながら、面談室で師長と向き合った。 「この前、部長から話があったと思うけれど」 出た。 「棟の人員が不足しているの。礼さんにはそちらに異動してもらおうと考えています」 さあ、逆指名をするぞ。 「はい、そのことは聞いています。異動するのでしたら、南棟でお願いしたいのですが、いかがでしょうか」 礼は勇気を出して、言った。 師長は一瞬、目を見開いたように見えた。それから、いつもの温度の低い表情に戻って、 「人が足りないのは西棟なの」 と、ため息をついた。 西棟はつい最近も一人、退職したと聞いている。その人も社会人から看護師になって数年目の転職者だった。ひとまわりも年下の、教育係だったスタッフの態度が原因という。当の本人は 『ほかの人たちは優しいから、聞けばなんでも教えてくれるけど、それでは後で苦労する。自分で調べてほしかった。だから、あえて詰めた』 と、話していたらしい。礼は、そんなところで自分がやっていけるとも、やっていこうとも思えなかった。 礼がなにか言おうとすると、師長が先に口をひらいた。 「南棟には今年、新卒の新人が配属されていて、教育の余裕がないの。だから、あなたみたいな、まっさらな新人と同じ人を入れたら、負担になるだけなの」 まっさらな新人と同じ。礼は師長の顔の前にある空気をみていた。 この職場で働き始めてもうすぐ三年になる。負担の多い遅番勤務も、当然のように他のスタッフたちより多くこなしている。それなのに。 師長は追い打ちをかけるように、手元のノートを開くと言った。 「この前は、利用者さんの血糖測定に失敗して、何度も針を刺していたそうですね。そんな基本的なこともできないで、南棟に行ってもらうことはできません」 それは事実だ。家族には説明をして謝罪した。気にしないでください、と言ってもらえて、ほっとしていた。 師長は礼のできないことしか目に入っていない。 それなら、どこならいいんだよ、と礼は心の中で毒づいた。 「それじゃ、西棟に異動、ということですか」 礼が聞くと、師長はため息とともにこう言った。 「あなたは棟に出せるレベルじゃないの。はやく看護師になってください」
はやく看護師になってください。 礼は何を言われたのか、すぐにはわからなかった。頭の先から冷や水がさーっと全身を流れていくような感じがした。ややあって、礼は静かに理解した。どうやら、わたしは看護師ではなかったらしい。この人にとって、わたしは異質な存在だったのだと。
そうだ、わたしはマグルなんだ。 空っぽになった頭にぼんやり、マグル、という言葉が浮かんだ。 あの物語の世界では、魔法使いの血を引かない人間『マグル』出身の魔法使いは、穢れた血と言われ、純血主義の魔法使いから蔑まれていた。 それと同じだ、と礼は思った。 わたしは看護学校を卒業して、そのまま看護師になった人とはちがう。 「人間」の世界、外の社会を知ってから、看護師免許という魔法を手にした不純な存在。 どんなに頑張っても「純血」にはなれない。この人の前では、わたしが何をしようとも、本物にはなれないのだ。 病院での出来事は、純血の型にはまろうとした結果なのかもしれない。 礼は自分のかたちのようなものを、はっきりとなぞらえたような気がした。 わたしは看護師である前に、ひとりの人間だ。看護師という種族にはなれないし、なりたくもない。 「この部署を希望している人は、他にもいるの。礼さん、わたしはあなたをここにどうしても必要な人だと、今は言えません。もっと努力して、手放せないと思われる存在になってください」 師長がノートを閉じながら言い放った。しかし、礼のこころは、静かに凪いでいた。 わたしは看護師になれなかったのかもしれない。師長の言う意味では。 わたしはマグルなんだ。 人間の世界で生きてきて、看護師免許という魔法を手に入れただけ。 そう気づいた礼は、不思議なくらい落ち着いた声で 「わかりました」 と、立ち上がった。 「次の人、呼んできますね」 面談室の扉を閉め、こころもち上を向いて廊下を歩いていく。壁には、サヤが利用者さんと作ったピンク色の花が揺れている。 わたしはどのような魔法を使えるのだろう。 これから、どこで、どのように魔法を使おうか。 もう少しだけ、ここの利用者さんに、魔法の練習に付き合ってもらおうかな。 そんなことを考えながら、礼は利用者さんたちの待つ場所へと戻っていった。 本当はまだ異動の話が怖い。それでも歩いてゆける気がした。