社会的病理に直面する難しさは、自らを悲しみの外部原因として認識することの難しさにある。
社会的病理とは何か
天外伺朗は、社会的病理という問題を、人間の意識や集団のあり方という観点から論じている。
ここでいう社会的病理とは、単に社会制度の欠陥や、特定の人間の問題行動を指すものではない。人間の欲望やエゴ、集団の力学、社会に共有された価値観などが絡み合い、社会のなかで繰り返し生み出される問題である。
例えば、格差や環境破壊、過剰な競争、権力への依存、組織内の同調圧力などがある。
天外が重要視しているのは、こうした病理を単に取り除こうとすることではなく、まずそれらを隠さずに浮上させ、直面することだ。
天外は、理想的なコミュニティを夢見ることにも警戒を促している。人間はどれだけ成長してもエゴから完全に脱却できるわけではない。人が集まれば、対立やトラブルが生じる。にもかかわらず、善意に満ち、互いに助け合う美しい共同体を理想として掲げ、そのような場所であるかのように振る舞うことがある。
社会的病理が存在しない社会を夢見ること自体が、ひとつの問題を生み出すという指摘である。
問題が存在しないように装うこと。内部の対立を隠すこと。自分たちは正しいという物語を守ること。そうした態度こそが、病理を見えなくし、再生産することにつながる。
これはコミュニティに限った話ではない。企業や地域社会、国家、そして僕たちの日常生活にも当てはまる。
では、なぜ僕たちは、自分たちの社会に存在する病理に直面することが難しいのだろうか。
この問いを考えるために、スピノザの『エチカ』に立ち戻ってみたい。
自分の行為の原因を知らない人間
スピノザは『エチカ』第一部付録で、人間が自分の行為を自由意志によるものだと考える理由を説明している。
人間は自分の欲求や行為を意識している。しかし、それらを決定している原因については知らない。そのため、自分が自由に選択していると思い込む。
これはスピノザの自由意志批判の重要な論点である。
例えば、僕たちは何かを欲しいと思う。自分がそれを欲していることは知っている。しかし、なぜそれを欲するようになったのか、その原因については十分に認識していない。
欲望は、自分の内側から自然に生まれたもののように感じられる。しかし実際には、他者との関係、社会的な価値観、育ってきた環境、過去の経験など、さまざまな原因によって形成されている。
人間は自然の外側にいる存在ではない。僕たちの思考や感情、欲望もまた、自然の因果関係のなかにある。
ところが、自分の行為については意識していても、その行為を生み出した原因については認識できていない。
ここに、人間の認識の限界がある。
このことを社会的病理に重ねてみる。
例えば、ある組織のなかで同調してしまった人がいる。その人は、自分の判断で同調したと思っている。しかし、その判断は、周囲からの評価への恐れ、所属を失う不安、集団の価値観、過去の経験など、さまざまな外部原因によって形成されている。
自分がなぜ同調したのかを理解するためには、自分の意思だけを見つめても十分ではない。自分を取り巻く関係性や環境を理解する必要がある。
つまり、自分の行為を理解するためには、自分自身を外部原因によって規定された存在として認識しなければならない。
恥とは何か
ここで、スピノザの「恥」の議論につながる。
スピノザは『エチカ』第三部で、恥を、他者から非難されていると信じる自らの行為の観念を伴う悲しみとして定義している。
恥は、他者からの評価を想像することによって生じる感情である。
例えば、自分の行為を誰かに批判されたとする。そのとき、僕たちは単に行為を指摘されたとは感じないことがある。自分自身の存在を否定されたように感じる。
なぜだろうか。
それは、自分の行為を自分自身の意思と結びつけ、その原因を自分の内側に求めているからではないだろうか。
自分が選んだ。自分が判断した。自分がそうした。そう考えているからこそ、その行為への批判が、自分自身への批判として受け取られる。
もちろん、自分の行為に責任を持つことは大切である。しかし、行為の原因をすべて自分の意思に還元してしまうと、その行為を生み出した外部の条件が見えなくなる。
そして、自分の行為を批判されることは、自分の存在そのものを脅かすものになる。
ここに、恥の難しさがあるのではないか。
人間は、自分の行為の原因を十分に認識できない。だからこそ、自分の行為を批判されたとき、その原因を理解するよりも先に、自分自身を守ろうとする。
批判を否認する。批判した相手を非難する。自分の正しさを証明しようとする。
こうして、問題の原因を理解する機会が失われていく。
社会的病理を外部化する
ここまで考えると、社会的病理に直面することの難しさが、もう少し明確になる。
社会的病理は、自分の外側にあるものとして認識されやすい。
「あの組織がおかしい」「あの人たちに問題がある」「あの社会の価値観が間違っている」。
こうした批判は、一見すると社会の問題を指摘しているように見える。しかし、自分自身もその社会のなかで生き、その価値観を共有し、場合によってはその仕組みを支えているという事実は見えにくい。
社会を批判する自分自身もまた、批判の対象となる社会の一部なのである。
ところが、自分の行為を生み出した原因を認識できないままでは、自分自身が病理に加担している可能性を理解することが難しい。
病理は常に誰か他の人の問題として現れる。自分はそれを批判する側に立ち、問題を抱えているのは他者であると考える。
ここには、スピノザが指摘した人間の認識の限界がある。
自分の行為を意識していることと、その行為の原因を理解していることは同じではない。
社会的病理に直面するとは、社会の問題を外側から発見することではない。自分自身の行為や欲望を生み出している原因もまた、その社会のなかにあると認識することなのだ。
しかし、その認識は容易ではない。なぜなら、それは自分が正しいと信じてきた判断や、自分自身についての理解を揺るがすことになるからである。
自分を守ることと、病理を見えなくすること
人間は、自分の存在を維持しようとする。スピノザのいうコナトゥスは、あらゆるものが自己の存在を維持しようと努めることを意味している。
自分を守ろうとすること自体は、人間にとって自然なことである。
しかし、自分を守ることと、自分の行為の原因を理解することは、必ずしも一致しない。
自分の行為を批判されたとき、その原因を探るよりも、自分の正しさを証明しようとすることがある。自分の判断を疑うよりも、批判した相手の問題を指摘することがある。
そうすることで、自分の存在は一時的に守られるかもしれない。しかし、その行為を生み出した原因は理解されないまま残る。
社会的病理に直面することの難しさは、ここにある。
僕たちは、自分たちが生きている社会の問題を認識することができる。しかし、その問題を生み出している原因のなかに、自分自身も含まれていることを認識するのは難しい。
そして、その難しさは、単なる知識不足ではない。自分の行為を自分の意思によるものとして理解し、自分自身を守ろうとする人間の認識と感情のあり方に根ざしている。
社会的病理に直面することは、自分の外側にある問題を発見すること以上に、自分自身を規定している原因を認識することの難しさに直面することなのだ。