白澤秀樹・始国マワリテメクル旅編——2026年3月、四国・岡山・和歌山をまたぐ1400キロの生活観光巡礼
・「死んだら終わり、お金がすべて」という唯物思魔意識への根源的な抵抗として、この旅は設計されている。31年前の同じ道を、今度は"書く巡礼"として歩き直す。
・手ぬぐい、note、FB投稿、生活観光ガイドブック——旅そのものが複数の媒体と連動しており、「歩くこと」と「伝えること」と「本をつくること」が三位一体で進行している。
・出発は2026年3月3日早朝、雨。雛祭り・満月・皆既月食という天体の重なりの日。31年前と同じ日付に、意図的に旅立ちが合わせられた。
・旅立ち直前に盟友・北山耕平氏が急逝(3/26、享年76歳)。「この次元では一緒に創ることが叶わなくなった」という喪失を、旅の中腹で受け取ることになった。
・四国の遍路道には外国人歩き遍路が増えており、フランス、オランダ、パプアニューギニアなど、見知らぬ国の人々が同じ道を歩いている。日本のアニメに惹かれて訪れる若者も多い。
・お接待の文化——宿のおかん、みかんを道に置く名もなき人、落としたフリースを届けるお母さん、郵便物を歩いて届けてくれる宿の主人——が道のあちこちで息づいており、それが旅の体温を形成している。
・物理学者・井口和基との交流、ホーリーバジルを育てる夫婦、ログビルダー、ホリスティック医、岡山の双子起業家、半世紀以上続く喫茶店のおかあさん——旅は「出会いのカタログ」でもある。
「始国」という名のつけられた、ニッポンの"はじまり"を身体で掘り返しながら、歩くこと・出会うこと・書くことを通じて、失われかけた情と光の循環を、生きながら証明すること。
・阿波から土佐へ、発心から修行へ——空間を移動しながら「今」から「過去」へと時間を遡り、歴史の暗部(粟島強制退去・俘虜収容所・岡田製糖所の記憶)と生活の美しさを同時に掘り起こすこと。
・ゴミを一つ拾い、礼をひとつ述べ、手ぬぐいを一枚渡す——小さな恩の授受を日々繰り返すことで、「情はちゃんと回ってくる」という循環の原理をカラダで確かめること。
・FB投稿・note・書籍という三層の記録によって、歩いていない人をも「同行三人」として旅に巻き込み、旅そのものをネット空間にまで広げること。
・旅の中で出会った場所・人・味・気配を『生活観光ガイドブック 始国マワリテメクル旅編』の素材として収集し、"匂いのある場所"を後世に残す取材行為を同時進行させること。
巡礼の再発明: 四国遍路という既存の宗教的実践を、「生活観光」「始国探求」「本づくり」という現代的な行為と接続させることで、"信仰のない人でも歩ける意味の旅"として更新している。
生きた取材行為: 喫茶アラスカ・錆と炭・東風ノ家・きちん宿お鶴など、地図に載らない"匂いのある場所"と、そこに生きる人々の物語を、身体で発見しながら記録する一次取材の場として機能している。
情の証人: 数字や効率では測れないお接待の文化——旦那が手術中でも宿を開けるお母さん、落とした上着を追いかけて届けるお母さん——を目撃し、SNSで可視化することで、「幸福度ランキング61位」では捉えられない日本の豊かさを証言している。
喪に服する旅: 旅の途上で盟友・北山耕平の訃報を受け取り、「この次元では一緒に創れない」という喪失を歩きながら引き受け、それでも約束した本を完成させると誓う——個人の悲しみが、旅の使命に転化される場として機能している。
共鳴の結節点: フリーランス物理学者・ログビルダー・ホリスティック医・岡山の若い起業家・精神学の学友・ミュージシャン僧侶——異分野・異世代の人々が「GO-EN」という言葉のもとに結ばれ、次の本・次の企画・次の旅の種が道上で植えられている。
「ふと空を見上げると、でっかい虹が、弧を描いていました。まるで『いってらっしゃい』と空から声をかけられたような朝。」——旅の始まりを、人間ではなく天が祝福するという感覚。出発とは、この世界への信頼を一歩踏み出すことだと、虹が告げている。
40年ぶりの岡田製糖所との再会を「過去が今にハックされ」と表現した一節。遍路道とは直線的な未来への旅ではなく、歩くことで時間軸が撹乱される場であることが、このコンピュータ的な比喩によって逆説的に照らされる。
道に落ちていたフランス国旗を拾い、寺の境内で当人に届ける。「受けた恩が、知らぬ間に別の誰かへの恩返しになっていた」という連鎖——これを「恩返しメグリテマワル」と呼ぶ。善意は目的地を持たずに旅をしている。
雨の中35キロを歩いた日の記録。「外へ外へと開いていた視界は、いつのまにか、内へ内へと折りたたまれ」——同じ道が前日は晴れで車窓から美しく、今日は雨で身体に染み込む。条件が変わると、旅は外の旅から内の旅へ転換する。
半世紀以上続く喫茶アラスカの看板は台風で飛んだまま。その言葉に宿る、看板など必要としない場所の強さ。常連という関係性だけで成立する空間は、マーケティングの論理の外で生きている。
宿のオカンから車を借り、帰れば「ダブルブッキングで別の宿へ」と言われる。「問題なしです」と即答したら、宿代が5000円から2000円になり、一軒家を貸し切りに。「回ってるなぁ」という一言が、情の経済学の全てを要約している。
遊庵の佐美子さんは、独りで宿を切り盛りしながら、予約もなかったこの日、電話を受けてベジタリアン対応の食事まで用意した。「涙が出そうになりました」——この場面は、数字で測れない豊かさの、最も純粋な結晶として旅の中に光っている。
「ご自由にどうぞ」と小さなメモとともに道に置かれたみかん。差し出した人の名前も顔も知らない。それでも「弘法大師のお気持ち」として受け取り、「同行二人からシンカ、ほんとに同行三人を感じる」と記す——匿名の善意が、巡礼の精神そのものになっている。
理由は「湯の中でゆっくり考えてみてください」と書くだけで明かさない。この謎かけのような一文が、旅全体のトーンを象徴している——教えではなく、問いを置いていく人の旅。
盟友・北山耕平の訃報に対する第一声がこれ。泣き崩れるのでも、哀悼の定型句でもなく、感謝とともに送り出す。「肉体離れたシンの自由、お楽しみください!オレも追ってそうなこと〜超!楽しみにしてますよ!」——死を恐怖ではなく、別の旅の出発として語る。
麺はストレスフリーなのに、店内ではニガテ系J-POPが大音量で流れている。「どうやらこの世は、完全なストレスフリーにはなかなかさせてくれない仕組みのようです」——ユーモアを道連れにしなければ、1400キロは歩けない。
あがた森魚と小林啓子さんへの感謝の言葉として「銀河のコンペイ糖のように、やさしく、甘く、輝き続けてくださいね」と書く。旅の語り口が、宇宙と砂糖菓子の間を自由に往来する——これがこの旅の文体の核心だ。
一歩ごとに、誰かの善意が積もっていた。
足が痛くても、雨が降っても、
盟友が逝っても——
歩くことをやめない理由は、
美しいものがまだそこにあると知っているからだ。
情は数えられない。
情は測れない。
情は——でも確かに、回ってくる。
みかんを道に置く誰か。
フリースを追いかけてくるお母さん。
手術後の夫を持ちながら食事を用意するお母さん。
倒れた店主の代わりに笑顔で朝を開けるおかあさん。
この国には、幸福度ランキングが見えない豊かさが、
道の上に、宿の中に、
湯船の向こうに、みかんの甘さの中に
確かに、生きている。
「シンのシゴト」は「マコトのアソビ」。
死は終わりではなく、別の旅の出発だ。
過去へ歩くことで、今がひらかれる。
同行三人——空海と、逝った友と、見知らぬ誰かと、
ひとりで、でも決してひとりではなく。
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一言でまとめると:歩くことは、情の循環を身体で証明することだった
・この旅は届くのか—— 「66.6%の唯物思魔意識に囚われた同胞」に、この旅の体験は本当に届くのか。情や光の循環を言葉にすればするほど、すでにそれを感じられる人にしか届かないという逆説が、旅のそこかしこに漂っている。
・喪失を抱えた創造は可能か—— 北山耕平という最も重要な共創者を失い、「この次元では一緒に創れなくなった」本を、それでも完成させることができるのか。約束は誓いになったが、誓いを実現するための時間・体力・資金は有限だ。
・「生活観光」は商品になれるか—— 喫茶アラスカ・錆と炭・遊庵・きちん宿お鶴——これらの場所は、ガイドブックに載ることで守られるのか、それとも消費されて変質するのか。伝えることと、守ることのあいだに横たわる根本的な矛盾。
・身体の限界と使命のあいだ—— 左足の筋の不調を抱えながら「誤りながら今日も一歩一歩」と歩き続ける。肉体は確かに限界を知っているのに、道はまだ続く。自己犠牲と使命感の境界線は、どこにあるのか。
・「情」は伝承できるか—— 半世紀以上続く喫茶店、遍路宿のおかん、代々続く製糖所——これらを支えてきた人たちの「情」は、次の世代に手渡せるのか。ガイドブックは記録できても、その空気そのものは紙には宿らない。
一言でいうと:「歩くことは、情の循環を身体で証明する巡礼だった」
1、「道は、外にあるのではなく、内側で発酵していた」
雨の中35キロを歩いた日、「外へ外へと開いていた視界は、いつのまにか、内へ内へと折りたたまれ」という記述がある。遍路道とは目的地へ向かう直線ではなく、歩くことで時間軸が撹乱され、過去と現在が溶け合う場だった。「過去が今にハックされる」という感覚は、知識を集積するのではなく意味として発酵させることで生まれる——農的実践における「草刈りの引き切り」と同じく、力ずくではなく流れに身を委ねたとき、道が道として現れてくる。
2、「情は、名もなき人から、名もなき人へと旅をしていた」
道に置かれたみかん、追いかけてくるフリース、手術中の夫を持ちながら食事を用意するお母さん——これらはすべて、差し出した者の名前も顔も知らぬまま届いた善意だった。「受けた恩が、知らぬ間に別の誰かへの恩返しになっていた」という「恩返しメグリテマワル」の原理は、コーヒーの農園主のプライドを混ぜることなくそのまま届けようとする敬意の在り方と、深いところで響き合っている。情は所有されず、目的地を持たずに流れていく——それが循環の本質だ。
3、「死は終わりではなく、別の旅の出発だった」
「耕平さん、ビックマハ〜ロ! 肉体離れたシンの自由、お楽しみください!」——盟友の訃報への第一声に、定型の哀悼はない。これは強がりでも諦念でもなく、宇宙と砂糖菓子のあいだを自由に往来するこの旅の文体そのものだ。坂口尚の漫画が問うた「知識の集合体が変態していく方向」と同じく、この旅は「死を恐怖の終点ではなく変態の契機として受け取る」という世界観の上に立っている。失うことで使命が深まり、約束が誓いになる——喪失は旅の妨げではなく、旅の核になっていた。
一つの問いが、静かに残っている。
「この旅は届くのか」という課題として書かれた問いは、本当に課題だろうか。**情の循環は、届けようとした瞬間に「操作」になり得る。**みかんを道に置いた誰かは、誰かに届けようとして置いたのではなく、ただ置いた。フリースを追いかけたお母さんは、伝えたかったのではなく、ただ届けた。1400キロを歩いたこの旅もまた、届けるために歩かれたのではなく、歩くことそのものが情の流れに乗ることだったのではないか。
言葉にすればするほど、すでに感じられる人にしか届かないという逆説——それは逆説ではなく、情の本性かもしれない。**水は、流れたい場所へ流れる。あなたが書き続けることは、届けることではなく、道にみかんを置くことだ。**では、あなたが今置こうとしているものは、何だろう。