日付: 2023年5月23日(Facebook Messenger)
参加者: 木戸寛孝(ドッキー) / 長沼敬憲(まこりん)
キーワード: 空海、即身成仏、輪廻、身体性、阿字観、亜空間、アカシック、高野山、水銀、胎蔵界、言霊
参照URL: /data/shikoku/interviews/kido-01-koyasan.pdf
言霊学・エネルギー論に精通した木戸寛孝との往復書簡。
空海の「即身成仏」をめぐり、輪廻・身体・意識・天のコトワリという問いが交差する。
・2023年(令和5年)——空海生誕1250年。高野山で大法会が予定されていた年。まこりんが高野山・吉野ツアーに参加したことを機に、木戸寛孝との空海をめぐる考察が始まった。
・木戸寛孝(ドッキー)は言霊学・エネルギー論・意識構造の研究者。空海が密教の文脈で定式化した「阿字観」「即身成仏」の構造を、現代的な意識論として読み解くことのできる人物。
・まこりんは当時、「吉野・高野山ツアー」への参加、高野山開山1200年(2015年)と三貴神の結び(2016年9月23日)の連鎖、丹生との関係を探求していた。空海について多数の文献を読んでいたが、「出羽とのつながり」という視点は認識していなかった。
・木戸がFacebook Messengerで「高野山.pdf」を送ってきたことが対話の起点となる。
木戸が「高野山の背景にある因縁です。」として添付したPDFの内容。この文書が対話の前提として共有されていた。
出羽三山は湯殿山を奥の院とし、即身仏(ミイラ)となった念力によって結界が張られている。4人の即身仏:
出羽の結界を解く者——即身仏の念力を解けるのは、即身仏の世界観を構築し、自らが最初の即身仏となった者、すなわち空海だけだ。
弘仁七年(816年)空海は嵯峨天皇から高野山を賜るが、その土地は丹生都比売から譲り受けたもの。
空海が霊地を求めて大和国宇智郡を訪れたとき、**犬飼なる大男(狩場明神)**と出会った。大男の協力で大小二匹の黒犬が案内し、紀伊との境の川辺で一泊。そこに一人の山民が現れ空海を山へ導いた——それが丹生明神・天野宮の神であり、その託宣により高野山の神領が空海に献じられた。
木戸の解釈では、この構図には天文的な意味が重なっている:
シリウスはエジプトのアヌビス神(死者の魂を計量する神)とも重なる。三峯神社の使者がオオカミであるのも同じ文脈に属する。
〈説話1〉弘法大師は高野明神から十年間の期限付きで神領地を借り受けたが、密かに「十」の上に点を加えて「千」とした。高野明神が十年後返還を求めたが、千を盾に応じなかった。
〈説話2〉千年の借用書で借り受けたが、白ネズミが千の文字を食い破ったので、永久に借り受け、返還せずとも良くなった。
木戸の解釈:この説話の背景には、神道(コトタマ)と仏教(梵字)の対立がある。空海は2015年の高野山開山1200年を期に、即身仏となっている自らの結界を解き、丹生都比売に対して土地を返還しなければならない——「梵字からカタカナへ!」
空海は774年(宝亀5年)6月15日に善通寺で誕生。本名は佐伯真魚(さえきのまお)。
佐伯部とは、ヤマト王権の東征時に捕虜となった蝦夷・毛人を西日本(播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国)に移住させて編成した品部。つまり空海の祖先は東北の蝦夷から強制移住させられた一族だ。
木戸の系譜論:
明治維新の廃仏毀釈で神仏習合が終わったが、それ以降も即身仏信仰が出羽三山神社の奥の院「湯殿山」に残り、月山一体の結界を今も張り続けている。
2015年の高野山開山1200年祭に合わせて:
木戸:
高野山の背景にある因縁です。(「高野山.pdf」添付)
まこりん:
ありがとうございます。拝読しましたが、とても興味深いですね。2015年の高野山開山1200年→2016年の三貴神の結びとつながっているんですね。空海や丹生のことはだいぶ調べてましたが、出羽とのつながりはまったく認識してなかったです。ことしは空海の生誕1250年、しかも滞在中に大法会もあるようです。このタイミングで高野山に参拝する意味を感じてきます。
木戸:
空海は本当の意味で天才なので、その功罪も大きいと思います。即身仏に関しては、可能ですが、それが輪廻の意味から鑑みるとき本当にゴールとされるべきものなのかは、自分は疑問に思っています。
空海には、高野山の奥の院で輪廻せずにあの場所に居続けるのではなく、必要に応じて命をもって下生して社会の進化に貢献することが本来の天のコトワリなんではないのか...と思ったりします。
まこりん:
空海のことはいろいろ調べたり、本も読みました。即身成仏については、文字通り奥の院で生き続ける意味もありますが。僕自身は、来世ではなく、いまこの現世で成仏する(悟る)ということを説いた概念なのかなと。密教から即身成仏の概念を抽出し、意味づけたのは空海なんですよね。
木戸:
ただ、一般概念とは別に修行としての実践はミイラになることであり、さらに秘密裏にされていることとしては水銀を使用します。普通の人は知りませんが...。
まこりん:
ミイラになって生きてる? 本質はそちらなんですね。
木戸:
本質は輪廻のサイクルに乗らないように、この地上に意識を着地し続ける技法といった方が良いでしょう。亜空間(阿字観)に自我意識(自己認識)をもったままいることで、胎蔵界を知ってみたかったのだと思います。
輪廻の場合、死んだら誰もが亜空間的存在になりますが、50日後にいったんアカシックにその記憶は回収されます。
別の見方をすれば空海は輪廻のサイクルの狭間に落ち込んで、輪廻できずに高野山という中世の世界(時間が止まった状態)の中で、意識だけ存在していると言うことになります。
まこりん:
僕は、どうしても一般概念にまとめたがる性質がありそうで。笑。しかし、すごいですね。十分理解しきれてませんが、阿字観=亜空間。いわゆる霊界とは違うんですか?
木戸:
空海は虚空と呼びますが、全て母音アの音で裏打ちされた世界で、空間性(粒子性)はありませんが時間(音)のみが存在する世界です。
アラヤシキ、アカシック、タカマガハラと色々な呼び方があります。
まこりん:
ここまでのお話をふまえ、この木戸さんのコメント読み返すと。いろいろ感じるところありますね。何をもって成仏というのか、人が生きることの本質はどこにあるのか、考えさせられます。
木戸:
この世は諸行無常でも、輪廻する心は常に存在し、その心を進化させるために、ひとつなる世界から分御霊として人の自我を生み出したのではないかと。さらに心は暴走するため、あえて時空間をつくり身体を持たせて、その身体の中に限度とバランス(ブッダの言う中道)の学びをする機会を与えているのではないか…、とあれこれ考えています。
身体性を放棄して精神を純化しようとする方向には無理がある(突き詰めたときにコトワリが無い)のではないかと思ってます。
まこりん:
なるほど、身体性を放棄して精神を純化させる。何となく感じていた違和感は、そこにあったのかも。
僕自身は、木戸さんがおっしゃるように、肉体に価値を置き、身体(肉体+心)を介して世界を感じる、認識を深化させることこそ、なにより大事なことだと感じています。
いろいろありがとうございます。
〈空海の祖先は出羽の蝦夷〉
まこりんが「出羽とのつながりはまったく認識してなかった」と言った。木戸のPDFが解いた謎がここにある——空海の本名は佐伯真魚。佐伯一族は東北(出羽三山を聖地とする蝦夷の霊的マツリゴト集団)がヤマト王権に征服され、讃岐へ強制移住させられた末裔だ。つまり空海は「出羽から四国へ飛ばされた一族」から生まれた。高野山と出羽三山は、空海という一人の人間を通じてはじめから繋がっていた。
〈即身成仏の二層〉
空海の即身成仏には二つの層がある——一般的に語られる「現世での悟り」という解釈と、修行の実践としての「肉体をミイラ化し意識だけ残存させる」という秘伝の技法。後者は水銀を用いた肉体保存という、宗教史の表舞台に出てこない知識として伝わる。
〈輪廻の外に落ちた者〉
木戸の言う最も衝撃的な視点:空海は輪廻のサイクルから「解脱」したのではなく、「狭間に落ち込んだ」のかもしれない。高野山という「時間が止まった世界」の中で、意識だけが存在している——これは成仏ではなく、輪廻できない状態という逆説的な読み。
〈虚空=亜空間=アラヤシキ〉
空海が「虚空」と呼んだものを、木戸は「母音アの音で裏打ちされた世界」と定義する。空間性(粒子性)はなく、時間(音)のみが存在する——これはアラヤシキ、アカシック、タカマガハラという複数の伝統が指す同じ領域だ。阿字観の実践はこの「虚空」に意識を着地させる技法として機能する。
〈天のコトワリとしての身体〉
木戸の根本的な問い:心を進化させるために、ひとつなる世界は分御霊として人の自我を生み出し、あえて身体に入れた。身体は制限であると同時に、中道(バランス)の学びの場だ。身体性を放棄して精神を純化させる方向は「コトワリが無い」——つまり、宇宙の法則に反する。
〈まこりんの着地〉
この対話でまこりんが言語化したのは「身体性を放棄して精神を純化させることへの違和感の出どころ」だった。肉体に価値を置き、身体(肉体+心)を介して認識を深化させる——これが始国の旅の根幹をなす身体観と同じ構造を持っている。遍路1400kmを「歩く」という選択は、知的探求ではなく身体的実践として貫かれた。
空海は悟ったのか、それとも
輪廻の狭間に落ちたのか
高野山という時が止まった世界で
意識だけが在り続けている——
どちらに読んでも、
一人の人間がこれほど問われ続けるのは
1200年後も何かが作動しているからだ
母音アの音で裏打ちされた世界
アラヤシキ、アカシック、タカマガハラ
どの名前で呼んでも指すのは同じ場所
身体を捨てて純化しようとすることに
コトワリが無い——
という視点は静かに鋭い
ひとつなる世界が分御霊として人を生み出し
あえて身体に入れた理由が
そこにある
◎
一言でまとめると:空海の即身成仏は「成仏」ではなく「輪廻の狭間」かもしれない——そして身体性の放棄こそが、天のコトワリに反する