
「《虹の戦士》の門を通れば、新しい自分が必ず生まれます。必ず、必ずです」
浅葉和子②
ネイティブアメリカンに伝わる「虹の戦士」の物語を通じ、調和のとれた未来をつくる生き方について語る浅葉和子さんのインタビュー。全2回シリーズの第2回です。
そして年が改まり2019年11月16日、次なるステップとして、マクロビオティック料理家の中島デコさんを金沢文庫にお招きし、料理教室とトークという2部構成のイベントを開催! 今回は、その時にお話しいただいた浅葉さんのメッセージをお届けします。
日々の積み重ねの50年
——浅葉さん、50周年を迎えていまどんな気持ちでしょうか?
50周年ってひとことで言っても、日々の積み重ねの50周年だから、あんまり意識はないですね。50周年に何かやるなんて考えてなかったですが、まわりの人たちが「何かやったほうがいいよ」と言ってくれたので、しめくくりというか、区切りでやってみたんだけど、やっぱりやってすごくよかったですね。
やっぱりね、立ち止まるってすっごく大事。突っ走ってきて、先しか見ないという人生できて、はじめて立ち止まった時に何かが見える、ということを感じました。
——そうやって直感に任せて走ってきたなかで、いろいろな転機があったと思うんです。特にアメリカに渡り、ネイティブ・アメリカンに出会ったのはひとつのターニングポイント、虹の戦士の入口だったのかなと思うんですね。その時の話を聞かせてください。
ネイティブ・アメリカンに会う前にすごく大事な一点があって、それがエジプトだったんです。エジプトに最初に行ったのは1984年かな、友達に誘われて軽い気持ちで行ったんだけども……。わたしは子供の教室を68年からはじめていて、その頃、いろいろと子供たちの間に社会的な問題が急激に起こってきた時だったし、自分自身も30代後半からいろいろなことが起こってどうしていいかわからない状況でもあったんです。それでね、誘われてエジプトに行った時にじつはすごい方に出会ったんです。それを公開します、今日は。
——これですね。
(額に入った絵を指しながら)神様なんです。ヌート神という女��で、(エジプトの)ルクソール神殿にある、ラムセス6世の天井壁画です。大きさとしては、(イベントスペース全体を指しながら)ちょうど向こうからこの端くらいのところにこの女体がずーっといるわけですよ。その女神の持っている神話というのがね、「1日1個太陽を食べて明日を生み出す」、そういう内容だったの。その話を聞いた時、もう悩んでいたことすべてがぱぁっと消えた。そこがスタートです、すべての。だから、わたしのお姉さまというかね……。
——お姉さま。(笑)
そういう感じで、すごく身近に思っているんで、勝手にね。それでわたしの部屋において、いまも同居しています。(この絵との出会いもあって)子供たちをエジプトに連れていきたい、まず体感することが絶対大事だと思ってね、子供たちをエジプトに連れていこうという企画をやって、結果としては18回連れて行ったの。
——18回!
18回。それで、89年にエジプト大使館の方から「ジャパンウィーク」がエジプトであると聞いて、子供の絵画交流展をしたいとわたしのほうから企画していったら運良く通って。それで日本の子供絵画文化使節団をつくって、だいたい40名くらいの子供とお母さんでエジプトに行って、ものすごく成功したわけ。
もう10日間いろいろなところをまわって、行くところどころにテレビが来たりね、そういう旅で子供たちもすごく満足して帰ってきて。その翌年、渋谷の南平台にあるエジプト大使館でその年に交流した人たちと祝賀会があってそれに参加したわけ。その帰り道、いつもは車で246を通るんだけど、その日に限って違う道を通ったら、その日に開いたというギャラリーに出会って、そのなかにあった1枚の絵がまたすごかったわけ。
——いま、その絵もありますか?
その時の新聞にちょっと連載をしていたのがあるけど……(言葉だけでは)わかんないと思うんだけどね。
——(会場に向かって)では、想像してください(笑)。
想像してください(笑)。砂漠のなかに毛布をかぶった女性の後ろ姿がある絵なんですが、この絵に、わたし自身はすっごく幸せな気持ちをもらったわけ。こういう幸せな世界に住んでいる人たちってどんな人たちだろう? 子供たちはどんな暮らしをしているんだろう?と思って……。その時に初めてアメリカン・インディアンの世界に入ったんです。
アメリカン・インディアンとの出会い
(アメリカン・インディアンというと)それまではジョン・ウェインとかの西部劇の世界、どちらかというと悪者的な……そもそも、もう意識すらしていないところからこの世界に入ったわけ。
——いろいろな知識を得たうえでなく、何も知らない状態で……。
ないないない(笑)。(絵を見て)どうしてこんなに幸せな平和な気持ちをわたしに与えてくれるんだろう? それだけ。
そうしたら、たまたま(ハワイに留学していた)娘の春が、アメリカで英語の勉強をしたいと言ったものだから、ロサンゼルスにいる(知り合いの)おじいちゃん、おばあちゃんに手紙を書いたんですね。そうしたら、「母親が一緒だったら預かる」という返事がきて、それではということで行ったわけ。
行くからには教室も犠牲になるし、子供もあと2人男の子がいましたが、ちょうど高校を出る年で、自分もしっかり勉強したいと思って、アートセラピーの勉強とネイティブアメリカンの文化という2つを目標に立てて行ったんです。2年の予定が結局4年になっちゃったんだけど、それが契機となっていろいろな人と出会って、ものすごく大きな学びを得たわけです。
——その間、躊躇しなかったというか、自分が直感で感じたら行動しようと?
もうあんまり考えないで、考えないで。次男が高校でれば、18歳まで面倒みたからなんとかなるかなあと、どちらかというと楽天的なところもあるので(笑)。
——そうなんですね(笑)。アメリカ渡ってその先はどうしようとか、そういう心配もしないで?
やっぱり人並みにちょっとは心配したけれど(笑)、行ってみたらそんなこと考えている暇はない! 日々いろいろなことが次々と起こるでしょう? だから、そんな心配してたということはまったくない!
——それで4年間、たっぷり?
1年間ロサンゼルスにいて、できるだけネイティブの子供たちのいる学校に行ったりしたんだけど、(出会ったのは)都市化しているネイティブで、ちょっとそれじゃ埒があかないと思って、サンタフェに移ったんです。そこで、たまたまプエブロ族の人たちと出会って、そこのアート委員会というものに参加して、日本の状況を初めて話して。
——日本とネイティブの文化交流ということも含めて、そこで?
そうですね。とにかく、日本の子供が危ない、ということを伝えたの。ちょうど70年代から80年代は、池田内閣の所得倍増計画というのが60年にあって、その弊害がそのまま子供たちに出てたわけ。受験戦争という言葉が出たり、自殺だとか、家庭崩壊、いじめとか、もういろいろなものがダーっと出た頃なの。その頃に、ここ(金沢文庫)も産業団地が650社くらいが埋め立てられて、街ができて、小学校ができて、82年だったかな? その小学校の5年生の男の子が投身自殺をしたんです。そのことを記憶している方いますか?
——いないですね、さすがに。
やっぱりいないね。最近の話なんだけどな、82年って。
——いやあ(笑)。
で、その子がね、教室に通っている子と同じクラスの子だったわけ。いままでそういう事件というのはテレビとか新聞の上の話であって、自分の身近にはなかったので、これは何かしなくちゃいけないって……そういう時に(ギャラリーで)あの絵を見たから、余計に感じたのかもしれないないですね。
——そういう危機感があって、実際に飛び込んで、ネイティブ・アメリカンからどんなことを一番学んだんですか?
彼らから一番感じたのは誇り。虐げられた暮らし、リザベーション(居留地)のなかで、貧しい、冷蔵庫を開けても急に行ったら何も入ってない……だけど、誇りだけはすごいわけ。
「金沢文庫芸術祭」への道のり
あと、(アメリカン・インディアンの人たちは)伝統をものすごく大切にしている。で、誇りですごいのはね、パウアウっていう彼らの伝統行事があるのね。ひとつのお祭りなんだけど、そういう時に、モンタナとかいろいろなところからやって来て、一夜にして山の裾野が祭りの場になるわけ、いろいろなティピ(アメリカ・インディアンが利用している移動用の住居)が張られてね。
そういうところで各部族が24時間音楽やって歌ったり、踊ったり、そういう感じなんですよ。で、その部族の音楽がはじまると、わたしのテントのところにいた92歳くらいの腰の曲がったおばあちゃんがかっと立ち上がってね、その曲に合わせて踊ってくんですよ。あと2〜3歳くらいの子も同じように行くわけ。
だから本当にね、そういう部族の伝統が当たり前に残っているのね。日本にはない伝統がサークルのなかで生きてる、っていうのかな、それが一番羨ましいと思いましたね。あと、お年寄りに対してとか、人を尊敬する、リスペクトすることが日常にあるっていうことかな。
——日本に戻ってこられた頃って、そういう先住民の文化はまだ認知されておらず、これからどうやって活動しようかと考えられたと思うんです。それがいまの活動に少しずつつながっていったと思うんですけど、具体的にどんな感じで活動されていったんですか?
具体的には、あまり考えてないんだけれども……ただ、たまたま子供たちに教える立場にあるから、わたしは選ばれたと自分で思ったわけ。(エジプト大使館からの帰りにギャラリーで見た)その1枚の絵は、矢を打たれたのと同じと思っているのね。だから、もうその時に《虹の戦士》になるっていうことで矢を打たれているんだと、自分では自覚していたわけ。他の人には言わなかったけれど、自分の心のなかで。
だから、帰ったら自分の学んだことを、教室の生徒にとにかく教えたい。実際にいろいろやりましたが……木を使ってやることとか、すごく自然のものをテーマにしてやることが多くなったのね。だけど、世の中どんどんどんどん、いろいろなことで社会問題が起きてきたから、これではおっつかないなぁと思ったの。それで焦りだして、何とかしなきゃなって思っているけど、この感情をわかってくれる人はそういないわけですよね、現実は知らないから。
そういう時にね、たまたまわたしのところがコーヒーギャラリーをやっていて、(称名寺の)参道にいる「ふみくら茶屋」のご主人と建築家の人、3人がばったり顔を合わせたわけ。それでお茶飲みながら「なんかやりたいよねー、ここすごいいいところだもんね」という話になって、それで「じゃぁ芸術祭をやろう」って言ったらすぐ決まったわけ。わたしのなかには、「あ、芸術祭を通していろいろなことを伝えられる」っていうひとつの思いがありましたね。
——なるほど、それが金沢文庫芸術祭ですよね。今年で何年目?
今年で21年目。99年が第1回目ですね。
——今年、ようやく参加できたんですが、すごく盛況でした。普通のお祭りと違ってアートが溢れているような空間で……、まだ訪ねてない方は来年ぜひご一緒しましょう。で、そういう歩みのなかで《虹の戦士》が形になっていったわけですよね。
(会場を見回しながら)皆さん、ご存知の方はどれくらいいらっしゃいますか? 名前を聞いたことがあっても、何を意味するかはっきりわからない方もいらっしゃると思うので、ちょっとその話をいただけませんか?
《虹の戦士》って、ネイティブ・アメリカンのクーリー族の人たちが書いたんじゃないかって言われているんだけども、もう大昔から伝わるお話で……、
地球が病んで動物たちが姿を消しはじめるときまさにそのときみんなを救うために虹の戦士たちが現れる
っていうくだりがあるんですよ。
この本なんです。うちの教室は、この本をずっーとテーマに去年くらいまではやってきたんです。日々の流れで計画的じゃないんですけれども、わたしがアメリカに最初行った時にね、ある新聞の連載を頼まれたわけ。その時、この一節を書きたいって思って、(翻訳者である)北山耕平さんに電話して許可をもらったのが最初ですね。
そんなわけで、自分のなかでは意識していたんだけれども、(自分自身が)《虹の戦士》になるということは思ったことはありませんでした。時が流れて、99年に金沢文庫芸術祭をはじめてちょうど10年たった時、芸術祭のなかでもっともっとネイティブのことを伝えたいっていう気持ちが強くなったのね。それで先住民族広場っていうのをひらいたわけ。
子どもの未来は地球の未来
(先住民広場を開いた2009年の金沢文庫芸術祭を迎えるにあたって)その時、自分のなかに、
子どもの未来は地球の未来
というメッセージがきたんです。その時に書いた詩をね、ちょっと簡単に早口で読みます。
——いえ、ゆっくり読んで大丈夫ですよ。
ゆっくり読んで大丈夫?(笑) これを芸術祭の最後のステージで読んで、ちょうど読み終わったときに八景島の花火がどーんどーんとあがったの。すごかったですよ。ちょっと目を閉じて、八景島の夜の風景とか自然を思い出しながら読んでみますね。
どこまでも続く青い空さわやかな風子どもたちは原っぱをかけめぐる
緑の山々にたくさんの鳥がさえずるレンゲ畑には蝶が舞い小川にはめだか大地から新しい芽が生まれる動物たちの群れ子どもたちの笑い声
とおいとおいむかし今から46億年前地球は宇宙のちりから誕生しましたそのかけがえのない地球という星の中にわたしたちは奇跡的に生きています自然とともに生きてきた先住民の人たちは大切な物事を決めるとき常に7世代後のことを考えて生きてきました
けれどわたしたちはいつの間にか自分のことだけを考えて文明の豊かさだけを求めてたった100年の間に母なる大地を傷つけてしまいました
多くのものが失われ海は汚されたくさんの植物は姿を消し動物たちが生きる場所を追われています
わたしたちは今こそ先人たちを見習い7世代後の未来を思い描くことが必要なのではないでしょうか終わりのない物質文明から自然とともに歩む心の文明へ
地球はひとつ人間がつくったあらゆる垣根を取り除いたら争いも奪い合いもなくなるでしょうそのとき地球の未来は豊かな自然を取り戻す
豊かな自然は子どもの夢子どもの夢は希望のタネ希望のタネが花開くとき地球の未来は輝いていく
子どもの未来は地球の未来地球の未来は子どもの未来
こういう詩が生まれたんです。ちょうどこの頃ね、いろいろなことを一番考えていたんでしょうね。
——以前、浅葉さんにインタビューしたとき、(そのお話のなかで出た)《虹の戦士》のメッセージがあまりに素晴らしくて……。浅葉さんおっしゃっていたように、ネイティブの人たちは誇りを持って生きていますよね? 土地を奪われ、虐げられてきたのに、自分たちがいままで大事にしてきた知恵を、虐げてきた白人たちのために使うという……。白人たちの文明が行き詰まったときこそ、自分たちの知恵が役に立つはずだ、世の中を変えるいしずえになるはずだと……。この考え方を本当にいろいろな人にシェアしたいなあっていうのが、このイベントを開いたきっかけだったんです。
そうですよね。それって本当にね、できそうでできないことであり、でも、やろうと思えばできることでもある。だから、ここでわたしがやると言ったら、やっぱりいろいろな人たちと一対一で向かい合い、心をつなげて、シェアをして、その人も幸せになって、わたしも幸せになって……。幸せな心がひとりひとりの中に宿っていけば、世界は平和になる。単純なんだけど、いま、それがひとつひとつの原点じゃないかなって気がしています。
グレート・スピリットとの対話
——昨年が50周年で、ひとつの節目であったと思うんですが、浅葉さん自身、《虹の戦士》としてまだまだ活動していこうという思いもあるわけですよね?
活動っていうとすごく動いたりと、激しくやらなきゃってわたしのなかにあったんだけども、でも、決してそうじゃなくてね。それぞれ与えられた立場で、自分ができることをするってことだと思うのね。で、私自身、ちょうど50年やって、それまでは子供たちと一緒にずっときたから、子供と一緒のモデルだったのね。それが、これからは息子(浅葉弾さん)がわたしの代わりにやってくれるということで、わたしのなかのバランスが一瞬、崩れたわけ。今年のはじめくらいかな……令和が過ぎた頃からね。それで、ちょっとこう、どうなんだろうと。
——ちょっと違和感があった?
ええ。子供たちと同じなかにいるんだけども 息子が主導を取っているから、わたしが入るとうまくいくときもあるというので、じゃあ、いまはこの与えられた自由な自分の時間を大切にして、(会場の奥にある先住民広場のスペースを指しながら)これからは本当にゆったりとあそこで……。
あそこにある本を読みながらね、ここを訪れてくれる人もいるので、そういう人たちと語り合ってね。訪れてくれる方のなかには、結構、自分で何かを持っていて、何か考えてるんだけども一歩が出しづらい、どうしていいのかわからないって人がいるんです。年の功でそういうのはわかるわけ、すぐ。
だから、その年の功を生かして、(その一歩に対して)大丈夫だよって言うのがわたしの役目じゃないかなあって思っています。あとはあんまり深く考えてないですが(笑)。
——浅葉さんは、基本的に説明して行動する人じゃないんですよね(笑)。でも、(会場の入口に)虹の戦士のゲートがあるじゃないですか。あそこをくぐればもうその瞬間に変化するって、おっしゃっていましたよね?
変わります。みなさん、今日はじめてここにきた人もいらっしゃいますよね? 虹の戦士の門はもう通りました?(通ったという声が多いのを聞いて)ああ、よかった、よかった。あれね、一回通って、そこを出る、そうするとね、必ず新しい自分がそこから生まれる。必ず。必ずです、それは。信じて。
あと、もうひとつ、そのついでに、できないっていう発想を消す。みんな何かやるときに、ちょっと無理かなとか、できないんじゃないかなって、そういう思いがどこかにありますよね? でも、できるって言葉はすごい大事です。完成度は誰も求めてないの。ただ自分のなかでできるっていうとこまでやればいい。自分がジャッジだからね。「できないよー」って子供も言っちゃうでしょう?
あれ、大人もおんなじね。わたしもそういうときがある。でも、それは打ち消して、できるんだって。それが鏡なのね。もうそれがグレート・スピリットと自分の関係で。できるんだと思えばこうなるし、あの人と会えるんだ、あの方とこういう時間が持てるんだと思うと、実際にそうなる。
そういう自分の力じゃない、引き寄せてくれる宇宙からの力と、人がつなげてくれる出会いの力とか、いろいろな力がひとつの大きな渦になっているから、そのなかからそういう自分の「できる」っていうものをつくって何かをやる。そうやってできると思っていたらそこに到達できると思う。だから、イメージすることが現実になるって、すごく大事だと思う。
——いろいろとお話を聞いたり、関係する本を読んだり、それで気持ちは目覚めても、自分には何もできないとか、何したらいいかわからないとか、そう感じてしまう人もいると思うんです。そういう人にはどんなアドバイスをされますか?
何もしなくていいんじゃないかなあ? 何かすることが出てくるまで。自然に出てくるから。(会場を見渡しながら)うん? いやあ、違うよっていう意見があったらどんどん言ってくださいね(笑)。なんかないですか? それは甘いよ~とかさ、いたら本当に言って(笑)。
人間ってね、悲しいときもあるし、生きていたらいろいろなことがある。その時に、もしかしたら瞑想が大事かもしれない。わたしがいま、ちょっと平静になることができ、いろいろなことのバランスが整ってきたのは、瞑想のせいかもしれない。朝ヨガを勝手にやっているんですよ、いまは寒くなったから6時に始めるんですけどね、1時間くらい。うちの池の前で、称名寺の。あ、自分の池だと思ってる(笑)。
——すぐ近くにある称名寺の池のほとりですね(笑)。
ええ。そこにマットを敷いて、1時間くらいヨガをやっていると、もう本当にその時間は何も考えない自分がいるのね。そうすると、そこで疲れがとれ、気持ちが落ち着くのかもしれないね。
——そうですね。
さっきの話に戻るけど、何もできない、どうしていいかわからないってときは、出てくるまでやっぱり待つしかないよね。
——心配しなくていい?
心配しなくて絶対いい。大丈夫だと思う。必ずくる。時が解決してくれる。昔からいう言葉だけど、まったくその通りだと思います。
——その言葉だけで勇気づけられている人もいるんじゃないかと思います。浅葉さん、素敵なお話をありがとうございました。
撮影:井島健至編集協力:わたなべなおか(やらだ出版)
和子 Kazuko Asaba武蔵野美術大学グラフィックデザイン科卒業。1968年より横浜市・金沢文庫で子供の絵画教室をスタート。児童絵画を通しての異文化交流(エジプト、トルコ、アメリカ、ラオス、タイ、オーストラリア、オランダ、中国、アフリカ、メキシコなど)を行う。1991年、渡米。ロサンゼルス・カリフォルニア州立大学、ニューメキシコ大学でアートセラピーを学びながら、アメリカ先住民、北プエブロ族と交流。帰国後、子供のために絵画教室をベースにしつつ、彼らに学んだ自然との共存の精神を広く伝えるために様々な活動を展開。1999年、「金沢文庫芸術祭」を立ち上げ、アートを通じての人輿し(町輿し)運動を開始した。教室のあるスペース(アサバアートスクエア)には、一般の人が立ち寄れるカフェ&ギャラリーも併設している。著書に『魔法のアトリエ子どものデザイン教室』(創和出版)。★アサバアートスクエア http://asabaart.com
ネイティブ・インディアンに伝わる教え《虹の戦士》とは?
「天におられる私たちの偉大なるスピリットは、どうして白人たちが僕たちの土地を奪う事をお許しになられたのですか!?」――ネイティブの血を引く少年の問いに、部族の長老である祖母はどう答えたのか? 物語はここから始まり、様々なエピソードを交えながら、次のメッセージを伝えます。
「地球が病んで動物たちが姿を消し始める時、まさにその時、みんなを救うために虹の戦士があらわれる」
「インディアンが昔のスピリットを取り戻したあかつきには、インディアンは白人たちに、互いに愛しあうとはほんとうにどういうことか、あらゆる人間を愛するとはどういうことかを、今度は教えることになるだろう」
以下、補足として北山耕平さんの解説から関連する箇所をご紹介します。
「世界各地の先住民の教えが伝えている。地球が病んで、動物たちが姿を消しはじめ、人々が健康を失って愚かな振る舞いを始める頃、(中略)伝説や、物語や、古い教えや、儀式や、神話や、太古の部族の風習などを、しっかりと守ってきた者たちの時代が到来すると。(中略)
「虹の戦士」とは、その人たちを指す。(中略)正義と、平和と、自由に目覚め、偉大なる精霊の存在を認める存在。日本列島は、母なる地球は、その人たちの到来を必要としている」
(北山耕平・翻案『定本 虹の戦士』太田出版より)
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浅葉和子 Kazuko Asaba
アロハインターナショナル公認ハワイアン・ヒーリング・インストラクター。「虹の戦士」の語り部として、先住民の智慧や自然との調和の精神を伝え、未来を創造する新しい世代の覚醒を促している。