
「自分の世界観が決まっていればいいんです」
中村桂子①
「生命誌(バイオヒストリー)」の提唱者であり、人間と自然の調和を問い続ける中村桂子先生のインタビュー。全2回シリーズの第1回です。
自然を観察の対象にし、それを細部にわたるまで分析することで普遍的な真理を見出す。……この数百年、そうした科学的探求が受け継がれることで、この世界の実体が鮮明に浮かび上がってきましたが、その一方で、分析が進めば進むほど、観察者である「わたし」と観察されるものである「自然」は分離されていき、気がついたら事実だけが一人歩きする味気ない世界に変わってしまった面もあります。
私たち人間は、自分もまた自然の一部であることを忘れ、それにゆえに暴走し、自ら不安を増幅させてしまう、とてもふしぎな生き物。そのふしぎさを優しく受け容れながら、目に見えるものと目に見えないもの、科学と野性をどうつないでいくか? 大阪の「生命誌研究館」を訪ね、「生命誌」の視点から、これからの私たちの進んでいく道すじについてお話を伺いました。今回はその第1回。
「一番大事なこと」を考え続ける
そうですか? 私自身の日常を撮影したいと言われて、「はい、どうぞ」とお任せして、それを藤原道夫監督が映画にしてくださったので、面白いと言われても(笑)。
ここ(生命誌研究館)の展示は隅から隅まで指示しますが、あの映画に口出しは一切していないんです。だから、あれは藤原作品なんです。丁寧に作ってくださいましたが。
はい。もちろんみんなで作ってはいますが、私の作品という気持ちでいます。
書いたものではだめですか?
いえ、それは全然違います。「広める」という考え方は、私にはないのです。私はここを作る時に禁句を作ったんです。それは「啓蒙と普及」です。「啓蒙と普及」は私の辞書にはないんです。最初、私は「教育」もできないと思って「教育、啓蒙、普及は禁句」と言っていたんですが。
ただ、education(教育)はもともと「引き出す」という意味ですし、自分の年齢を考えても次世代に残すために何かやらなければいけないかなと思って、(禁句から)教育は外しました。でも、「啓蒙と普及」はいまも禁句です。偉そうに言うことでもないんですけれど(笑)、私は自分が本当に大事だと思うことをやるだけなんです。
はい。ここを作ったのも、私の本当にやりたいことだったからであって、誰もわかってくれなくてもやっていたと思います。生命誌研究館を構想したのは25年以上前になりますが、その時は親しい友人もわかってくれなかったですね。最近、やってきたことが目に見える形になっ���ことで、周囲の人たちも理解してくれるようになりましたが……。
正直、私はマイノリティが大好きで、何かが流行りはじめるといやになるんです。わかってもらえないのはしんどいですが、わかってもらえないことをやっている時が、一番元気がありますから。
「一番大事なことは何か?」を考え続けることは大好きですが、みんなに無理にわかってもらおうとは思わないんです。理解者がいるのは、もちろん嬉しいですよ。だけど、百人の来館者が来てワイワイと見学するだけならば、3人が本当にじっくり観てくれるほうが嬉しいですね。
周縁にいるのって面白いでしょ?
周縁にいるのって面白いでしょ? 私も周縁にいるのが大好き。
そうは言っても、私の話すのは日常のことです。私は抽象概念が全然ダメなので、「生命とは何か?」という問いに興味がないんです。同様に、「心とは何か?」、「正義とは何か?」、「愛とは何か?」といった問いも自分のなかで立てられない。それに答えるのにもあまり興味がないですしね。
「この蜘蛛が生きている」という具体的な事実があって、そこから「どうやって生きているの?」という問いが生まれ、その次に、「私も生きている。それと同じね」ということを考えて……。そうやって「生きているって何だろう?」ということを探しだすのが好きなんですよ。具体的なことから「私はどう生きたらいいんだろう?」ということを考える。「生命とは何か?」なんていう抽象概念を考える頭脳を、残念なことに持ちあわせていないんです。
体にストンと落ちるものでないと、ダメなんです。頭で理解している状況はいやなんです。哲学者たちは難しい抽象概念もストンと腑に落としているのかもしれませんが、私の能力では落ちないんです。だから、私は「生きているってどういうことだろう?」と考えた時に、蜘蛛や蝶がやっていることをまず観ます。「蝶のお母さんはスゴイことをやっているな」と思うことで、「人間のお母さんもスゴイことをやっているな……」と考えていくことができ、「生きるってこういうことじゃない?」とだんだん思えるようにもなる。私の場合、どうもそういう考え方しかできないみたいですね(笑)。
研究者は自分の論文を演奏すればいい
(一般的な科学では)専門化するということは、より抽象化することとされていますけれど、私の場合、それが日常とつながった時に初めて自分にとっての学問になるんです。
ええ、全然わかってもらえませんでしたね。私はここを作った時、「生命誌研究館」という6文字の言葉をセットで思いつきました。生命誌をやりたくて、普及するために研究館を作ったのではなくて、生命誌は研究館でしかできないと思ったんです。
ではなぜ研究館かというと、いまの世の中のお約束事としては「研究したら論文を出す」ということになっています。それをやらなければ専門家としてのレーゾンデートル(存在理由)がないので、やらなくてはなりませんが、一般の人にとってそれは楽譜でしかないだろうと。
ベートーヴェンの「運命」という交響曲は誰でも知っている名曲で、みんなが愛しているけれど、ベートーヴェンの楽譜が置いてあっても「運命」だとわかる人がどれだけいますか? もちろん、作曲家や指揮者はわかるでしょう。でも、ほんの一握りの人たちですよね?
その時、ベートーヴェンが生きていて、演奏してくれたら最高ですよ。それが本当の「運命」でしょう? だとすると、研究者は自分の論文を演奏すればいいんじゃないかって思ったんです。「音楽は必ず演奏するのに、なぜ科学は演奏しないんだ?」って思ったんです。だから、ここをコンサートホールにして、演奏しようと考えたんです。たとえば、N響が「運命」を演奏するとします。その時に演奏を「啓蒙普及」と言いますか?
彼らは自分の最高の演奏をします。だけど、「音楽を啓蒙普及しています」とは言いませんよね? どうして科学だけは「啓蒙普及」って言わなきゃならないの、と思ったんですよ。「私は最高の演奏をします。だからお聴きになりたい方はぜひいらしてください」というのが、科学においても本来の姿なんじゃないかと私は思うんです。
そもそも、「私たちが最高の演奏をするから聴きに来なさい」って強制したりしないでしょ? 聴きたい方が行くわけですよね? ところが科学だと、「啓蒙普及」と称して嫌がる人を連れてこようとするんです。そんな馬鹿なという気持ちです(笑)。
私は、科学も音楽や美術と同じだと思っているので、やるべきことは、自分たちが携わっているものを最高に表現しましょうということなんです。だから、ここで何かをやる時は美しくなければいけないし、思いがこもっていなければいけない。ただ普及のために「私たちはこんなことやりました」というだけのものは決して置いてはいけないんです。自分の気持ちを込めたものを美しく表現し、それを見ていただくことが大事だと思うのです。
世界観が決まっていればいい
そうです。私が思っているのはそれだけです。だけど、先ほども話したように、抽象的に「生命を尊重しよう」と言っても私にはピンと来ない。「生命尊重って何?」って考えた時に、たとえば、ここに蟻が這っているとするでしょう。この蟻も親がいないと存在しませんが、その親の親のことを考えていくと38億年もさかのぼれるんですよ。つまり、目の前の小さな蟻も38億年かからないとここにはいない。それってすごいことですよね?
どんなに立派なロボットも、パーツをひとつずつ組み立てればできてしまうけれど、38億年はかからないですよね? でも、蟻は38億年がないとここにいない。すごいことだけれども、同時にそれは当たり前のことでしょう? もちろん、人間もそのひとつであって、生き物であり、自然の一部なんです。そういうことをベースに生きていくということは、当たり前なんだということです。
そうです。
自分の持っている世界観が決まっていればいいだろうと思うのです。数値は出さなければいけませんが、問題は自分の持っている世界観です。世界観が生き物の世界観であれば、数値はそこに吸収できます。でも、それが機械のような世界観で、こんなに格差があっても平気な世界観を持っていたら、同じ数値が違う意味を持ってしまうでしょう? ここでも毎日DNAを分析しているわけで、やることの問題ではないんです。問題は自分の持っている世界観です。それが生きるということをベースにした世界観になっていない、そこが問題なんです。
◼︎「38億年だけどごめんなさい」
大事なのは、私はどう生きるか、私はどう暮らすかということだけです。大森先生が見事に書いてくださっているでしょう?
『科学者が人間であること』(岩波新書)で紹介しましたが、あれが私も共有する世界観です。毎日暮らしていくなかで、ふとアフリカの人のことも考えたりするという世界観ですよ。
いえいえ、蟻の話と同じですよ。
家にいると蟻が入ってくることがよくあるので、私は蟻さんとお話するんです。ところがそんな話をすると、「私ならすぐに潰すわ」って言う人がいる。私は「潰さないでよく眺めてお話すると面白いわよ。邪魔になるなら庭に追い出してあげてよ」と言うんですが、そうすると「ゴキブリはどうするの?」って。私もゴキブリは殺虫剤をかけます(笑)。
台所には食べ物もあり、衛生的にも問題がありますからね。それは私の勝手なんですけれど、でも、そこが「生きる」ということの面白さなんですよ。生きることが大事だと言っても、「じゃあ、あなたは何も食べないのですか?」と問われたら、毎日食べますよね? それらもすべて生き物ですから、何も殺しませんとは言えないわけです。ただ、自分が生きていくなかで「これは」って考えながらやっていくと、「蟻まで潰さなくていいでしょ?」と……。
まあ、冗談ではあるんですが、ゴキブリを殺す時は「あなたも38億年だけど、ゴメンね」って言ってから潰すんです。だって、お米だってお肉だって、何だってそうでしょう? 38億年かかっている点は同じです。あなたも「38億年だけどごめんなさい」と思って食べているわけでしょ?
だから、私の辞書には「正義」とか「絶対」って言葉はないんです。私のやっていることは正しいから従いなさいなんて言わないけれど、でも蟻くらいは気にしてもいいじゃないって感じですね(笑)。
それを「世界観」と言っているんです。大事なのは、その世界観をどうすればいいのっていうことなんですが、その答えはひとつです。自然と接していなければ絶対にいけません。先ほど「絶対はない」と言ったのには矛盾するけれど(笑)、これは決して否定できない真実です。
◼︎自然のなかでみんなが暮らせる社会
ですから、東京の高層マンションには本当に疑問を感じています。そんなところで子どもを育てるのは、本当に恐ろしいことです。
そうなんですか?
そう感じられたんですね。
高層階だと窓も閉じたままでしょ? そうすると「いま、風が吹いているね」とかなかなか感じられないのではないですか?
私の家は東京の世田谷にあるんですが、幸いなことに緑がとても多い場所で、エアコンを使うことはほとんどないんです。
はい。そういう時は、必ず天窓を開けて風を通すようにしています。そうすると、暑い日にお客様が来られても、「ここは涼しいですね」って言われます。都会の家でも、うまく風を通せれば本当はエアコンなんて必要ないんですよ。
そう。必要なら風が通るところに座ればいいわけ。そうすると我慢してじゃなく、好みでエアコンを使わないことが選べます。汗をかいてお客様が来られたら、もちろんエアコンをつけてさしあげますが、それ以外は使いません。省エネとかエコとか自然環境のためとかじゃなくて、自分が好んでやっていることなんですけれども。
そうですね。私は東京の生まれですが、幸いにも原っぱのあるような場所で育ち、そうした感覚が体に染みついていますから、そこから世界観がつくられたのでしょう。ですから、子どもの教育だとかエコだとかいちいち言わないで、普通に自然のなかでみんなが暮らせるような社会にしていけたら、日本は素晴らしい国になると思います。日本人はもともとそういうことが得意で、とっても素晴らしい能力を持っている民族ですから、本当はその力を使ってただ普通にやればいいだけなんです。
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中村桂子 Keiko Nakamura
JT生命誌研究館名誉館長。理学博士。生命誌(バイオヒストリー)という新しい知の領域を創設。生命科学の知見を基盤としながら、人間が自然とどう調和して生きるべきかを問い続けている。