日付: 2026年6月27日
参加者: 話者1 = 永原レキ(レキ君)/ 話者2 = 長沼敬憲(まこりん)
キーワード: サーフィン、藍染、音楽、空海、海陽町、阿波藍、ローカル、マイノリティ
備考: 未リライト。検索・参照用の原文ストック。
話者1:じゃあ、とりあえずチェックインを、今の何ていうか、心境と言いますか、何て言いますか、場に入る言葉を出していただけたらと思うんですが。
話者2:はい、僕から。
そうですね、なんかそういう雰囲気にしちゃったんで、れんきくんからお願いします。
話者1:今日話す内容を改めて見ています。
まとめられるかわからないまま参加してますが、よろしくお願いいたします。
話者2:お願いします。
じゃあ僕もチェックインすると、実はちょっと1時間ぐらい前まで国永先生と話してたんで。
でも逆に5時にしていただいて、ちょっと一息つけて、ちょっと違う、モードが切り替わる感じなんで。
でもちょっと連続感はあるような印象もあって、決して無関係ではないと思うんで。
この時間はこの時間で自由に話していただければと思います。
後で構造化したものを比べるとつながっているような気もしたりもしますんで。
ちょっと楽しみにしています。
よろしくお願いします。
話者1:お願いします。
はい、じゃあえっとね、そうさっき国永先生と喋ってて。
まこりんがチェックイン忘れたってこれ始まる前に言ってたの。
しないうちに始めちゃった。
話者2:なんでだろうと思ってた。
話者1:どういう意味?
話者2:でもなんかやっぱり、いいんだけどやっぱりちょっと。
内容が内容だったから別にいいんだけど、なんかやっぱり国永先生って言っちゃうのってちょっと嫌だなぁと思った。
喋りながら。
国永先生で。
呼びながら、なんとなく。
だからなんかきっと、わかんないけど、呼ばれたい名前ってわかんない。
先生って言ってって言うんだったらいいかもしれないけど、なんかあるとやっぱりちょっとだけいいなーって思いました。
話者1:はい。
そんな感じです。
話者2:始まる前、きょんちゃんの悪口言ってた?
話者1:言ってないです。
いつも2人でやってるのかって聞かれたから、結構そうかもと思って。
話者2:そう、あのね、不完全な2人だから。
話者1:なんの言い方。
話者2:そう。
まあよろしくお願いします。
話者1:お願いします。
チェックアウトはしなかったんですか?
話者2:うん、なんかね。
変革ね。
話者1:そうそう、確かにね。
僕、お医者さんの本とか作りすぎてて、なんか先生って呼ぶ癖がついちゃってて。
話者2:そんなことないよ。
話者1:いやでも、自分の中ではそういうのある。
話者2:あ、そう。
話者1:うん、そう。
先生って言っちゃったっていうのは正直あった。
だからってすごく良かったです、話した内容は。
すごく素敵な方で、全然垣根がない感じでね。
だから、海洋庁に対してもすごい興味が。
興味っていうか、そういう地場みたいなものをすごい感じた。
話者2:端的にはどんな内容だったんですか?
キーワードだけ言うと。
話者1:これまでの何回も海は普通に話していただいてね。
今ここにいる国永先生とか国永さんっていう人の必然性というか。
要は、お医者さんであってお医者さんじゃないみたいなところを感じてたんで。
そこをなんていうか、その輪郭をなんとなく感じたいなと思って。
僕らは言葉を投げて。
そこに対してのレスポンスをしてくれるような感じで。
肩破りな感じをやろうとしてないんだけど、結果的にすごく肩破りな方というかさ。
マイルドな感じの人柄だと思うんですけど。
そこが今この海洋庁のような、なんか今日話していただけるかもしれない。
なんか風土性ともすごくマッチしてるのかなっていう気がする。
話者2:なんか開放的なんでしょうかね。
話者1:なんか地域自体がね。
海洋民族。
海洋民族だからっていう言い方は彼もしてて。
そういう風土性とやっぱり個人としての海の自然みたいなものがやっぱり誰もがそうかもしれないですけど。
やっぱりつながってその人の今があって未来があってって感じがするんで。
ちょっとその土台が見えてきて。
継続してちょっとお話できたらいいですねみたいな言い方が今なったんで。
今日の話もそうですけど、ちょっと続けながら何か形が見えてくるんじゃないかなとは思ってます。
国永先生ももうなんかほんといくらでもなんかいろんな引き出しがいっぱいあるから、歴史の話とかもそうだしね。
本業の方でも緊急救急、EDRとか地域の離島の敵地医療とか。
あとは今でも予防医学とか未病とか統合医学とか。
あとは災害防災災害医療とか。
病院、本職の中でも結構いろんなもう守備範囲がいっぱいあったりして。
それを超えてもうその今、笑いとか職とか、歴史とかもう本当マジでも360度包囲されて。
なんか全部対応できるみたいな人なんで。
国永先生ももう本当になんかもう一冊のなんか本できる人というか。
話者2:でも何をどっからどうすればいいのかわかんないけど。
話者1:でももうなんかお二人がその医療の本が変わってこられてるっていうのはすごいね。
またそれもまたシンクロというか。
話者2:そうね。
話者1:このトラさんシリーズ以外で国さんとのコラボすごい早々に実現しそうな気がしますね。
もう皆さん一人一人、れきくんのコンテンツもできそうな気もするしっていう。
みんなそこの何かを持った上でつながってる感じはするんで。
話者2:一旦取り出してみて。
話者1:そうそう、ちょっと素材を一回並べてみてみたいな。
今回、僕はその前、一昨日こう提示してもらった空海と愛とあれです、今日の話もそうですけど。
逆に国永先生は今回のトラさんに対してどういったところを引き出してくるのかが。
なんか僕は全然今読めなくて。
国永先生の取り組み自体を本にする方が圧倒的に早そうな気がするというか。
話者2:確かに。
話者1:僕とかトラさんの言ってることってめっちゃ抽象的というか、もうすごい広すぎて。
どこをどう取ったら一体誰がそれに対して興味を持つんだみたいな。
全然本にしても売れる気がしないっていう。
自分で思う。
国永先生の場合本当に災害医療とかその予防医学職とか、地域、過疎地での医療。
今の社会がめっちゃ注目してる要素もど真ん中なんで。
すぐ本になりそうだし売れそうな気がする。
話者2:でもご本人はまだ早いって言ってたね。
話者1:まだ2年しか経ってないしって言い方はしてるけどそこの息づけはね。
話者2:形になってないですね。
話者1:形になってからっていうか彼の責任感みたいな意味ではね。
話者2:あるんだね。
話者1:だけど本にするかは別としてやっぱりビジョンを提示するっていうか。
そこはねまだまとまったものを出してないからというふうにおっしゃってるし。
なんかそういうものはやっぱり見える化した方がいいのかなと思いましたね。
なかなかいそうでいないというか。
すごい面白かった。
話者2:こういう作業をしてたら国永先生もこうなんか。
じゃあ次の1、2年、あと2、3年で結構こういうことをすれば形ができて。
まあ書籍にするにしても書籍にするみたいなことをイメージする逆算みたいな感じで。
やることが見えてくるような国永先生にとってもなんか良さそうな気がしますね。
話者1:そうですね。
なんかやっぱり医療者っていうのもあるし。
実践の中で生きてる人だから。
それをまとめて伝えるっていうところは。
なんていうか結果的に後回しになったりね。
だからこういう対話の場を設けて。
設けることで初めて言葉として誘発されて言語化されてっていう。
そこの役割になれるかもしれないなと思いました。
なんか思いがけずな言葉がスルスル出てきてた感じはあったから。
これとこれが実はつながってたんだなあみたいな。
話者2:それはこう誰とやっててもやっぱり本人の中でつながってないものが。
その場でつながるっていうのは結構面白いですよね。
例えばレッキコの中にもきっとあるのかもしれないけど。
それが自分のちょっと認知しているもののちょっと外に出れる瞬間なんで。
そういうそれが積み重なるとすごく良いものができるっていう。
手応えが出てきますよね。
話者1:知っているものを出すだけでそれで構成しても全然やっぱり面白くないし。
話者2:そうなんですよ。
知っているものの外にあるものが多分きっと。
何か科学反応がきっと出てくるんだろうなっていう。
ふわっとした期待を持ちつつ場をとりあえず作っていきましょうみたいなね。
話者1:予定調和しすぎずみたいな。
話者2:こっちもなんかまだあれですけど未知数やけど楽しみです。
話者1:からのまぁあれですね。
いったんトラさんの方に意識を戻すと。
あれですね僕がこれは話していかなきゃいけないですよね今日は。
話者2:そうですね。
基本でもザックバランでも大丈夫ですよ。
大体向かってると思うので。
話者1:まずそのテーマとしては空海、淡いサーフィン空海。
三本柱から見える四国の見えないネットワークっていうふうにしてみました。
話者2:淡いというか淡いサーフィンというか天辺かな。
話者1:天辺。
話者2:天辺の向こうにサーフィンが出てくるって感じかな。
話者1:天辺。
で多分三本柱は淡いと。
天辺というかまあ海ですね。
話者2:天辺というか本当はサーフィンなんだけどそこが。
話者1:淡いサーフィン空海っていうのは一応。
まろやかにして海みたいに愛と海のつながりっていうふうにしてるんですけど。
多分ここに来るのはサーフィンかな。
話者2:なるほどね。
話者1:そうですね。
自分自身が接続する媒介としてはそれがサーフィンってことですもんね。
海的なもの。
海的な世界というか。
話者2:サーフィン、入り口がサーフィンだったので。
話者1:そうかそうかそうですよね。
お父さんからの流れもあるしとか。
話者2:そっから海とか天辺とか的になっていくんですけど。
話者1:そうかそうか。
分かりやすくサーフィン、淡いサーフィン空海の三本柱が見るネットワーク。
テンシーな感じがすごいする逆に。
話者2:なんでみたいな。
話者1:そのサーフィンから始まったとして、前回もその話をお話しさせてもらったんですもんね。
話者2:そうですね。
話者1:父親がプロサーファーで。
話者2:そう、言うと淡いとそれがどう接続したかとか空海とどう接続したかっていうところはまだ聞いてない感じだから。
話者1:まだバラバラという感じですね。
話者1:僕らの中では。
淡いに出会うまでのあれは、僕がサーファーで徳島を出て、高校卒業して徳島出て千葉行ってみたいな話はしたんでしたっけ僕。
話者2:まだしてない。
話者1:してない。
そうか、僕がそのルーツみたいな話したんですよね。
多分西成、お母さんが西成で。
話者2:そうそう。
その辺は結構聞いてますから。
話者1:なので、どっから話せばいいか。
たぶんそのサーフィン、自分の生い立ちみたいなものから話していくと、サーフィンに出会って、14歳の夏にサーフィンを始めるというか、サーフィンの世界のほんとスタートする。
それまでは、父親がもう4歳とかに離婚していなくなって、父親の影響で、母親も一緒にこっちに、大阪、関西からこの海部、四肢区域に移住してきて、僕は生まれて。
だけど、きっかけというか、サーフィンがきっかけで生まれる前から、この時に呼ばれてたんだろうけど、その父親とか結構、社会不適合者みたいな人なんで、めちゃめちゃいろんな問題だらけだったんで、僕は小さい頃、家庭環境めちゃくちゃやったし、やっぱりサーフィン嫌いやったんですよね。
で、父親もいなくなって、父親の周りの不良なサーファーたち、父親との思い出とか、ほんとサーフィン大嫌いだったし、海も嫌いだった。
かなり幼少期に多分もうトラウマになってて、ちっちゃい頃にその父親に海に連れてかれて、まだ父親がいる時に4歳とかに多分、海初めてサーフィンした記憶は今もあるんですけど、その時にすごい怖かった。
押されて乗って転けてぐちゃぐちゃになって、溺れるというか怖かったんですけど、全然危なくなかったんだろうけど、当時の自分は怖かったんですけど、海に巻かれて出てきた時にパッて父親の方みたいな、笑いながら笑ってる父親の顔を今も覚えてて、こいつ最悪やなと思って。
それが一番最初のサーフィンの記憶なんですよ。
でも、そういう経験から時間を経たない間にいろいろ父親がいなくなって、いろんなお金のこととか経済的にとか、いろんな問題っていうか、負の家庭環境がいっぱいあって、だからもうなんか全部やっぱそれが父親のせいだっていう、ずっともう、結構大変やったんで、もうほんとサーフィン嫌い、父親も嫌い憎んでたし、サーフィンも大嫌いだし、その周りのサーファーも嫌いだし、何であったら海も嫌いっていうのがベースになって、そこから10年くらいはもうほんと、だから全く海に近寄らない。
泳ぐのも地元の川で泳ぐし、それは僕だけじゃなくて、不思議なことにこのシシクイ海洋町もそうなんだけど、みんな海近いんですけど、漁師とか友達いるんですけど、海に行かないんですよ、みんな。
川で泳ぐんですよね、夏とか。
海で泳ぐっていうのはあんまりしないんですよ、田舎の子たちって。
話者2:へー、なんでだろう。
話者1:それはなんでかわかんないけど、僕がまあそういう個人的な家庭環境のせいで海がなかったのもあるし、周りがそういう、泳ぐって言ったら川で泳ぐみたいな。
プールもないし、学校にプールもなくて、だから体育のプールの水泳の時間は川だったんですよ、中学校とか。
川が大好き。
話者2:何川というかどういう感じなんですか?
話者1:それはね、シシクイ川っていうのがあって、そこがもう本当僕らの水泳の教室。
ライフガードもないし、本当よく不思議なもので、今の時代から考えるとよくこうやってきたっていうか、逆に僕は今になって思うんですけど、今過保護過ぎて、なんか当時のやっぱ水に慣れさせる授業っていうのはすごい良かったなっていう。
森も持って、あゆとかついてたし、水泳とか。
今じゃ考えられないような、今もううちの学校はやってんのかな、でもまあ普通のその辺の地域に比べて考えたらちょっと普通じゃない。
そういう学生時代を過ごして、なのでね、なんかね、海に近づく機会がなかったんですよね。
釣りをしたり、みんな地元の子たちは釣りで海行くぐらいかな。
僕もたまに海釣りは行くぐらいだったけど、なんせこう、なんかこう海とは添えんな、暮らしをして、サーフィンは。
話者1:なおのこと意識的に避けてたんで、サーファーとかサーフィンとか、そうでそんな話をしだすとも本当、長いんですけども。
なんせサーファーは嫌いだった。
海嫌いだったんですけど、周りの仲間たちが小中学校もずっと一緒の40人の全校生との小さなコミュニティでずっと、0歳から幼稚園、幼稚園小学校中学校ってずっと一緒の仲間たちなんですけど、みんな仲良くて。
そんな仲間たちが夏は乾いてたんですけど、あるときに中学校3年生になってみんな野球とかバスケとかのクラブがもう総体負けて、もう中3の夏やることない、みたいな。
あんま僕らの地元って受験勉強みたいな雰囲気なかったんで、田舎の学校でなので、夏みんなが暇になって。
そのときあるお父さんがサーフィンやってた子が1人だけいて、その子が家にあったサーフボード3枚ぐらいお父さんから借りてきて、それで仲良かった18人の男子仲間がみんながいきなり海に行き出して。
それがきっかけで僕は行きたくなかったんだけど、仲良いからみんな仲良い仲間と常に遊んでたから、自然に行くしかなくなって。
で嫌だったけど行ってなんか、そのよくわからないけど、サーフボードをみんなで乗り回してたんですけど。
初日行ったときからなんか乗れちゃう、っていうか誰かに教えられたわけじゃなくて、子供たちが本当に子供だけで中学生三年生、海で、うちの前の海で、シシクイの海で、自然発生的に集まって始めたときに、なんか僕、たまたま最初の1本目から乗れて。
テイクオフって言って乗れたんですよね。
確かそのときのサーフィン、初めて波に乗って自分で立って、波に乗っている感覚っていうのが、電気っていうか、いなずまが走った。
話者2:へー、すごい。
話者1:嫌で嫌で仕方がなかった海とかサーフィンだったんですけど、めちゃくちゃ衝撃的だったんですよね。
波に乗って岸に向かってまっすぐ乗っていくだけなんですけど、なんかその日から、その日を境に、僕はサーファー、っていう多分になったんですけど。
その夏の夏休みはみんなハマってたからもう本当、ひと夏、夏休みもずっと毎日朝から晩までずっと見るみたいな。
でも9月夏休み明けに受験しなきゃいけない、新学校と商業高校って2つあって、新学校に行く子たちは勉強する子たちで、半分ぐらいが親から止められて、サーフィン行くなって言われて。
僕もね、頭が別に良くも悪くもなかった、中ぐらいだったんだけど、新学校に行くつもりだったんですよ、それまでは。
だけど新学校って海洋庁の市街地というか中心部にあって、商業高校っていうのがそのししくいの海の近くにあって。
新学校に行くと放課後サーフィン間に合わないんですよね。
なんかもうその時点で、サーフボードを持ってきた中心人物の友達と僕は商業高校に行くっていう選択肢をした。
中でその時点でいきなり選択肢が変わっちゃってて、そこからもう人生が、歯車が完全に外れるというか、ぐらいで。
なんか僕もサーフィンにハマっちゃってて、そういうのもあったり。
まず進路が大きく変わった、っていうのと。
だけどなんかふと気づいた時に、やべえ、俺サーファーになってしまってる、みたいな。
で特に高校に入った時に、高校行くとこの学則とかがちょっと厳しくなって、茶髪だと学校入れてもらえない、みたいな。
で僕髪の毛染めたことも、ピアス開けたこともタトゥー入れたこともないんです。
今人生当時も結構真面目だったから、普通に制服もストレートでも本当もう何もいじらないもともとだけど。
サーフィン一夏やってるともう、抹茶色になっちゃって、髪の毛で真っ黒だし金髪みたいな、自然のなんかそんな抜けちゃって色が。
でも何も悪いことしてないんだけど、毎回もう学校、高校始まってすぐに、服装チェック必ず玄関で先生に止められて、黒く染めてこい、とか言われて。
いやいや、なんで染めなあかんねん、っていう、染める行為が良くないじゃないですか、みたいな。
それやったら国際スプレーっていうなんか黒いスプレーで毎回もう黒くしてからじゃないと学校に入れないって言われて。
っていう拘束とぶつかってまず。
でなんか目をつけられてるわけですね、もう先生とかで。
なんか僕、サーファーとして見られてるって気づきだして。
僕が意味嫌ってたサーファーと同じように見られてるし、その嫌う理由も分かるし、嫌う気持ちもめっちゃ分かると思ってた。
その大人たち、先生たちに、いや俺逆にそっち側なんですけど、とか思いながら。
やばいと思って。
なんかと同時に、その理不尽さみたいなものにすごい抵抗しないと、と思って。
なんかそういう理不尽さ、理不尽、世の中の理不尽とぶつかり始めるのもちょうど高校1年生で。
その時に取った手段が、勉強しまくる、みたいな。
サーファーとして思われたくないから、自分の正当性を証明するために、とりあえず勉強しまくって、1年生からずっと3年生まで学校で学年トップだったんですよ、僕。
それはトップっていうのは別に、頭が良いとかじゃなくて、学校が頭が良くなさすぎて、これちょっと勉強したらすぐ100点取れる、みたいな商業家だったんで。
だからそれで勉強すれば1番が取れることに気づいて、ずっと先生たちを黙らせるために、学校でとりあえず1番取り続ける、みたいな。
勉強結構しまくってテスト前とかだけだけど、あとは普段は朝1サーフィン行って、夕方サーフィン行って、みたいな。
でもそれで体制に対して、自分の正当性を証明する、みたいなことは本当10代から癖づいてるというか。
自分をサーファーとか、自分がサーファーと思われたくない、というか、既存の世の中の思い描くサーファー像みたいなものになりたくなかったから。
その時点からすごいよくわからない葛藤が始まって、3年間ずっとちゃんと勉強して。
今のその体制に対する斜めから見たりとか、そういう癖は多分もともと、幼少期結構家庭環境むちゃくちゃあって、道なり行ったりとか、普通じゃなかったから。
普通の田舎の子でもないし、普通のそういう都会の子でもないし、そういうがあった見方。
本当物心ついた頃からそういう癖がついてたけど。
サーフィンやることによってまたなおさら、そういう世の中を斜めから見るみたいなとか。
常にイラだって、常にバカにしてみてるみたいな、おかしいやろ、っていうのはずっと幼少期思ってて。
なんでダメなんか、とかを説明してこない先生とかに対する疑問とかずっと思ってて。
それをでも、うまく不良になってバイク乗ってとか、タイプじゃなかったから、サーフィンしたかったし、勉強してやる、みたいなスタイルで対応してきた、みたいな。
今はそれが社会問題とか環境問題とかみたいな、この20年は多分に対して、そういう見方を知ってその中で自分は何ができるのか、っていうのやってきてたんですけど。
その素地みたいなものはそういう学生時代にできてる、っていう。
そんな普通で高校生からも徳島県だけじゃなくて、いわゆるサーフィンが僕に与えた影響っていうのはまず、やっぱ海が好きになったりとか。
やっぱその地元に、サーフィンを通して、僕は嫌いだったけど、なんかサーファーが悪いわけじゃない、とかサーフィンが悪いわけじゃない、みたいな気づきを与えてくれたんですよね。
自分は意味嫌ってたんだけども、心の底から憎んでたり、邪悪なものだと思い込んでたもの、がそうじゃない、っていうふうに気づかされた。
その中3の波乗り始めた時点から。
でなんかそうで、自分がいつの間にかそっち側になってて。
やっぱその自分が惹かれていくもの、やからそのサーフィンの良さとか、息づくし、なんかいろんな効果、いろんなあれが自分の中であって。
なんかその今まで憎んでたもの側に行って、でそうじゃない、正当性みたいなものもこうやらなきゃいけない。
やっぱシンプルに、サーフィンを通してプラス、ポジティブな情報がいっぱい入ってくるというか。
経験もできるし、純粋にまず楽しい、とか。
あとやっぱいろんな仲間ができる、っていうか。
こんな地方の高校生だけど、サーフィンを通して、いろんな近くだと神戸大阪とか都市部のイケてる人たちも来るし。
不良もいるけども、やっぱセンスのいいとか、お金持ちとか、いろんな肩書を持ってたりとか。
そういう都市の人たちと結構すごいフラットに、もういきなり仲良くなってみたいな。
そういう人たちと触れ合う機会も、普通なかなか田舎にいたら、自分でバス乗ってとか電車乗っていかなきゃいけないようなところを、向こうから来る、みたいな。
話者2:確かに。
話者1:そういう経験ってなんか普通の田舎にいるとなくて。
やっぱそれだけこの海、サーフィンとかこのサーフィンができる海がある環境、っていうのはそれだけ人を聞きつけるんや、っていうのを実感してたし。
やっぱその辺は他の人たちと違う。
自分の田舎にいながら、田舎何もない、みたいな感覚は全くなかったんで。
それはすごいサーフィンのおかげやなと思うし。
逆に全国の宮崎とか、それこそ千葉湘南とか、各それ以外の自分の地元以外の海がある場所の人たちも、やってくるし。
自分たちも大会とかで学生の大会とかで出ていく機会もあったし。
やっぱそういう地方の各地方行くと、道中大阪寄ったりとかするんで、都市に行く、っていうもともとそういう大阪との接点はあったんだけども。
サーフィンで移動する、っていう機会を超えて機会とかも結構多かったし。
それが部活とかじゃなくて個人的に行く感じだったんで、バス乗って行くとか、じゃないから、それが他の部活とかとはちょっと違う動き、だったなっていう。
高2に初めて海外、インドネシアに、もそれも仲間と2人3人で、高校生3人で高2で行ってとか。
なんせいきなり世界が広がった、って感じだったね。
こういうそれは当時はそこまで深く考えてなかったけど、やっぱその現体験とかっていうのは、いわゆる地方に暮らす若い子たち。
話者1:の自分の地元に対する価値感とか位置づけみたいなのをいわゆる価値を見出せずに出ていってしまう。
見出してるっていうか感じてるけど、その価値が何なのかよくわからなくて、やっぱり経済的お金とかそういうもので生活安定とかで都会に行ってしまうとかっていう流れがある中で、僕らはサーフィンを通して一般的な周りの人たちが流れてる流れとは違う動きができたっていうのは後になって大人になってからよく思いますね。
なので意味嫌ってたサーフィンだけどポジティブな部分を見るようにするっていう、その物事を一方向からだけ見ないようにしないといけないみたいなのは、そういうサーフィンからもうすでに学んだっていうのがこれは学生のときの現体験って感じです。
そこから学生で話まだ続くのは大学に行くんですけど、家の家庭環境が全然経済的に本当もうすごい貧乏だったんで、学校大学行くとか全然考えてなかったんですけど、成績が良かったから学校の先生が、特にあと英語海外行ったりもするし、サーフィンでやっぱり最終的にはハワイとかカリフォルニアとかいろんな海外の情報も入ってビデオも見るし、やっぱり中学校のときからサーフィンする前から英語好きだったんですけど、やっぱりサーフィン始めて英語っていうのが必須っていう感覚になってて、英語が勉強したい、サーフィンでプロになりたい、世界行きたいっていうので、学校の先生が英語も勉強できてサーフィンもできる大学を探してきてくれたんですよね。
でそれが千葉の九十九里にある十金っていうところにある私立の大学で、私立だしお金かかるし、ただなんかその成績が良かったからちょっと特待でちょっと優遇されるみたいなのがあったり、母親がよくわかんないけど、その借金とかして、多分あんまりお金のこと全くわかってなかったんですけど、なんかまあいける流れになったんで大学に進学するんですけど、そこから4年間千葉で学生しながらモスバーガーでバイトしたり、朝1から海行って学校行って、間でまた授業の合間にサーフィンしたりとかして、また夕方バイト行ってみたいので、学生サーフィン選手権っていうのは1年生から出てそれで日本一になって、新人選で優勝したりとか、そこから4年間ずっと学生の日本一っていうのを維持して、自分個人としてもチーム大学としてもサーフィン部日本一っていうのをずっと4年間維持したり。
それと同時に学生の競技の組織だけじゃなくていわゆる社会人のプロの組織もあったんで、最終的にプロの組織で言うプロにならないとプロになれないんで、そのプロのほうにも同時に出てたりして。
でも結構競技と学生をずっと4年間やり続けてた感じですね。
毎年冬ハワイ東流門であるハワイのビッグウェーブに乗るために1ヶ月間はノースショアっていう世界的な場所に1ヶ月合宿に行ったり、オーストラリアにも春休みに1ヶ月2ヶ月とか長期で行ったりとかっていうのは結構だから恵まれた学生時代で、スポンサーがついてたんで旅費とか母親の多分サポートも多少はあったんですけど、基本そういうスポンサーがそういう旅費とか出してくれたり、ギアとかそういうのも結構がっつりサーファーやってたんですよね。
恵まれた環境で育って学生では成績を収めたけど、結局卒業するまでに絶対プロになりたかったんですけど、プロになれなかったんですよね。
4年間やって才能と努力が足りずに、プロとしては学生の4年間の間にプロになれないっていう結果になって。
それもやっぱりもう14から22歳大学卒業するまで8年間サーフィンだけやったんで、薄々プロになれねえなって俺っていうのは自分の才能とかにも能力にも気づきつつ、その流れをやめれずでも勉強も同時にやってたんで、大学はちゃんともうほんと全部ちゃんと単位取って授業も全部出て、大学も一応主席で卒業して。
その大学も私立だったんですけど、ちゃんと症状とかも生徒代表でもらいに行ったりとか、結構優等生やったんですよ。
僕ちなみに文化人類学部だったんですけど、4年間訳もわからずただ英語とサーフィンができるために行った何かに行くとか別にどうでもよくて、どこのかに行っても英語ができて。
話者1:国際大学だったんで、選んだのが文化人類学部、国際交流学科文化人類学部で4年間勉強してたんですけど、何を勉強してたか全く覚えてないですよ。
ただ授業には出て、ちゃんとテスト、ノート取って、4年間ずっとやり続けてただけなんで、本当何を勉強してたか全く覚えてないけども、一応授業はちゃんと出て、成績はちゃんと出して、最後、結構いい企業から推薦だったんですけど、清水建設とかね、結構いい会社からの色々就職の圧戦みたいなのがあったんですけど、清水建設のやつがすごい良かったらしくて、これ絶対行った方がいいみたいなことを言われたんだけど、全くそんなも行く気なくて、清水建設とかサラリーマンになったらサーフィンできないじゃないですか、みたいな話を言って、最初からもう全く働く気なくて、働く気ないというか、サラリーマンには絶対ならないみたいな。
で、なんか卒業した後は一回何か惰性で四国に帰ってきて、で、いろんなご縁があって、何だっけ、なんとなくサーフィンの道を諦めてたんで、一回帰ってきて縁のあった柔道接骨師っていう、スポーツの接骨医の先生のもとでアルバイトしながら資格を取る。
もう一回3年間学校行って資格取るみたいな。
で、なんか接骨医の先生になろうと、それでべちくっていこうみたいな感じで1年間結構フルで接骨医で働きながら、その卒業した1年間も接骨医ベース、四国ベースでプロの試合に出れるとこは出てたんですね。
全国回ってたんです。
23歳までやって、この1年で慣れなかったら辞めようと思って、23歳で結局慣れなかったんで、結局23歳終わった時にプロを完全に諦めて、接骨医のスマホに行くのかと思ってたんですよ。
プロになるっていうのはどういう基準でなるっていう?
話者2:プロはね、JPSAっていう日本の中のプロ組織があって、ここの試合に出て準決勝以上まで勝ち上がるとか、年間通して何位以内に入るとか。
話者1:そうか、基準があって。
それも全然僕素質なくて、全然プロの試合で全然勝てなくて。
でもスポンサーもついてたし、スポンサーつってもそんな飯食っていけるお金くれるわけじゃなくて、遠征費出してくれたりとかだったんですよ。
だから23歳、24歳までかな、毎年ハワイは1ヶ月行ってましたね、冬は。
試合で勝つ競技者としてじゃなくて、ハワイに行く理由がその大きな波、ビッグウェーブに乗るっていうのもサーファーの生きていく道の一つで。
でかい波に乗って写真を撮って、それで雑誌とかに出て、そういうフォトなんとかで給料をもらうっていうパターンもあって。
そういうビッグウェーバーみたいな世界もあるんですけど。
その道もめちゃめちゃ中途半端に、僕はビッグウェーブそんな行けるほど根性なくて。
競技もビッグウェーブもダメだったんだけど、24歳までハワイの方は行ってましたね。
でもどっちもダメだっていうのが、21歳くらいからも分かってたんですけど。
なので、ビッグウェーバーとしてもプロの競技者としてもやっていけないけど、何かうだうだやってて。
その中で僕21歳に実はハワイで20歳頃かな、すごい今の人生を変える衝撃的な出会いがあって。
それがジャック・ジョンソンっていうハワイのミュージシャンの時に、もともとプロサーファー、世界的なプロサーファーになるって言われてたハワイのエリート、ジュニアサーファーだったんですけど。
大怪我して、彼は10代、高校生の時に大怪我して、そっからサーフィンの道を立たれて、カリフォルニア本土に芸術映像とか音楽の大学に行って、サンディエゴの大学でアートとかクリエイティブ映像を学んで、サーフミュージシャン、フィルムメーカーとして世界的に成功するんですけど。
ジャック・ジョンソンっていうのは当時もすごい流行り、世界的にすごいヒットしてたんですけど、そのまあ僕らが普段行ってたハワイの滞在先、パイプラインっていう有名なでかい波があるところで、彼はそこで生まれ育ってたんで、当時もすごい超ビッグアーティストだったけど、たまに地元帰ってきて、ハワイに住んでたんで、ツアーの合間とかに帰ってきてたら海に入ってるんですよ、普通に。
ジャックを海で見たときにめちゃめちゃ上手くて、波乗りが。
だけど、ハワイでホノルルとかでたまに街に行ったときにタワレコとかがあって、タワレコとかでは世界いろんなアーティストが映像、MTVで流れてタワレコで山積みになってみたいな、ああいうロックスターみたいな。
街に行くとジャック・ジョンソンのそういう側面もあるんだけど、海で会うとめちゃくちゃサーフィン上手くて、でも彼はプロじゃなくて、僕が全然勝てない日本人のプロサーファーたちもその海に入ってるんだけども、その日本でプロと言われてる人たちとか全然相手にならないぐらい上手いんですよ、ジャック・ジョンソンが。
だから、なんかプロってなんなんやろみたいな。
そこも、その日本人のすごい人たちにすら僕は勝てないんだけど、もっと上の世界があって、そこで現実というか、すごい高い自分の無力さみたいなのを知らされると同時に、サーフィン以外でこんな世界があるんやみたいな。
それがいわゆるサーフミュージックっていう、サーフィンと音楽との出会いなんですけど、実は20代であって、20歳そこそこの時にハワイでそういう出会いがあって、そこからギターも本格的に趣味としてやるようになって、ジャック・ジョンソンの音楽をずっとコピーして、サーフィンと音楽っていうのは自分の中でも絶対的なものになって、そこら辺からさらにサーファーからのシフトしていくんですけど、なんか挫折ですね、やっぱサーフプロになれなかったし、挫折した先にサラリーマンになるってことも、なんか接骨医の道を目指してたんですけど、なんかやっぱサーフミュージックっていう圧倒的な世界に出会ってしまったから、普通になれないなみたいな、この世界追いかけたいと思って、で、接骨医にも結局1年行ったんだけど、やっぱ悩んだせいに学校行くのまたお金も時間もかかるから辞めるんですよね。
24歳の時には、どうしようって思いながら湘南の茅ヶ崎に行くわけです、僕は。
接骨医には辞めて、海洋町に今いても仕方ないと思って、サーフミュージックって世界で見たんだけど、やっぱ日本の中でサーフミュージックが一番根付いてる地域はどこだろうっていうのを調べてるとやっぱ湘南なんですよね。
岡本太郎さんがいたりとか、いろんな歴史も長いし、サーフィンも音楽、湘南って一番こうそういう日本を見直した時に、やっぱ湘南だって。
で、なんか縁があって茅ヶ崎にサーフミュージックの仲間がいたんで、そういう先輩たちがいるところに、そこで人材派遣の会社で発泡スチロール作る仕事を毎日朝から晩までやって、週6日働いて、週末なんかそういう湘南のイベントとかお寺でライブとか、鎌倉とかで誰かさんが寺でライブやってるの見に行ったりとか、ロック系の茅ヶ崎のそういうサーフロックとか、あとレゲエ、サーフレゲエみたいな。
当時流行ってたんで、そういうの現場に行って1年間茅ヶ崎にいながら、そういうサーフミュージックの日本の中での世界を見てて。
そんなのがあって、どんどんサーファーからその音楽っていうか、愛媛までちょっとまだ長いんですけど、いわゆる文化というもの、日本の文化ですね、アートとか芸術みたいなところで、音楽とかその映像、ジャック・ジョンソンの映像のアーティストだったんで、そう、なんか音楽とか映像とかアートとかっていうのに、22歳からシフトしていくっていう。
これね、話しだすとほんとずっと話してるんで。
話者2:面白いね。
話者1:ずっとこの話をしてて、全然愛媛にたどり着かないって多分みんなに言われるんですよ。
ここからまた長いんですよ、僕は。
なんか、あの、ジャック・ジョンソンに惹かれる前から僕、ボブ・マーリーとか、それこそマイケル・ジャクソンとかジョン・レノンとか、川野清郎とか、親の影響でボブ・ディランとかね。
音楽は身近にあって、特にやっぱ自分の親が聴いてた音楽がそういうメッセージ性というか、社会に対するメッセージ性の強いミュージシャンが、親の影響もあって聴いてたんで。
なんか音楽の元とかそのミュージシャン、アーティストは、ミュージシャンのその生き方とかメッセージっていうのは多分無意識のうちにちっちゃい頃から感じてて。
ジョン・レノンとかすごく好きだったし。
特にボブ・マーリー、清郎好きだったし。
なんかジャック・ジョンソンに影響された、すごい持っていかれた理由は、やっぱジャックが環境問題とか、そのウミガメの減ってるとか、それこそ当時25年前ぐらいですけど、環境問題っていうのは日本とかでは全くまだ話題になってない時代だけど、ハワイのネイティブのランゲージとか国語とか文化とかがウエスターナイズされて、やっぱハワイアンはハワイアンで、自分たちのアイデンティティがどんどん搾取されてなくなっていってるってことに危惧をしてて、プラスリゾートの開発とか、やっぱジャックはそういうものに対してすごい平和的な優しくアゲインストするっていうのを音楽とか映像っていう武器を使ってやってて、そういう彼の発信するアート作品の中に込められた思いが、ローカルを大事にしようとか、自然を大事にしようとか、先祖を大事にしようみたいなのがやっぱなんとなく伝わってきて、しかもサーファーでありながらミュージシャンで、音楽っていう、ミュージシャンでもあるけど、やっぱサーファーである自分も表現してるんで、映像の中とかで。
サーファーミュージシャンとして世界にそれを発信、しかもそれが世界に受け入れられて、受けてるっていう。
話者1:そこになんかすごい、なんだろう、幼少期から抱えてた自分の意思なりとかのルーツもあるし、世の中に対するいろんな自分の感じてきた、世の中がなんでこんなに、なんかおかしいみたいなところはずっとあったし、何をどうしたらいいかわからなかったんだけど、サーフィンでプロサーファーになって、サーフィンを伝えることが地元の魅力を伝えることになったりするってなんとなく思ってたけど、その道も立たれたときに、音楽っていうのが、自分はミュージシャンとかロックスターとかになれないと思ってた、なる気はなかったんですけど、なんかそういう世界に関わることによって、自分が抱えてきたその世の中に対する、世の中を良くしたいみたいな、変えたいっていう、その欲望、欲求が実現できるんじゃないかっていうのは、ジャック・ジョンソンに出会ったときに音楽っていうのにそこの感じたっていう、ただただサーフィンしてるだけで、日本人のその小さな世界で日本のプロサーフィンの世界にいても、それは叶えられないなって思ったし、自分に実力がなくて、良かったっていうか。
あとちょうど22歳かなときに、たまたまなんですけど、環境問題に大きく意識を持っていかれる経験、なんて言うんだろう、出来事があって、それが、僕の地元の海洋町の隣町、高知県の東洋町に、放射性核廃棄物の処理施設、放射性核廃棄物、原発から、原発稼働したときに出るゴミの処分所を、今、日本で政府はまだ見つけられてないんだけども、当時から既に日本政府とか東電関連とか、ユーモって原子力なんとか機構みたいなところが動いてて、で、うちの地元のその隣町の東洋町が、当時の首長が、処理所の誘致の自治体として、その誘致を手を挙げちゃったんですよね。
で、僕はその時、原発のこととか何も知らなかったんですけど、たまたま隣町にそういう問題が起きて、で、ある高知のヒッピー、全然知らない人が、当時ミクシーってSNSで、なんか連絡くれて、で、なんか、高知の島戸川源流でその方々、活動してた方で、たまたまその角町ってとこにも、その同じ問題があって、自治体が手を挙げたんだけど、やっぱり色々地域の人たちが反対運動をして、しりぞけて。
だけど、政府がその後も色んなところ、地方、特に地方に、やっぱその処理所の誘致を実現、どうにかさ、やらなきゃいけなくて動いてる中で、隣の高知県の東洋町にそういう話が言ってるっていうのは、その人たちがちゃんと追いかけてくれてて。
で、まあ地元でそういう話に興味ありそうな若い子っていうので、僕になんかたまたま縁があって、特にサーファーの何人かの僕の仲間と僕に連絡が来て、当時20歳そこそこの僕ら何人か、3、4人かな。
で、その高知から来てくれた人に原発の色波を色々教えてもらって、この放射性核廃棄物を誘致する処分所を作るっていうことはどういうことなのかみたいな、いろんなメリット、デメリットを教えていただいて。
そう、っていう、なんかそういう経験が、そういう出来事があったんですよ。
で、約1年ぐらいかな、その先輩、高知の先輩を通して、その原子力の色々勉強されている先生たちを東京から呼んで、3回、4回ぐらいかな、その講演会、勉強会を地元の一般の住民向けの勉強会を、民間というか、僕ら個人で自分たちでチラシ作ったり、スケジュール立ちて先生とやり取りしてみたいなことを、なんか3、4回ぐらいやらせてもらって、訳も分からず、なんかそのとりあえずなんかやっぱサーフィンのね、海に放射性物質、放射性のものがなんか出たらどうするとか、農業とか水、食べ物が一番やっぱ農家さん、漁師さんの食べ物に大きく影響する。
自分たちも、そのサーフィンしてる海もどうなるかわかんないみたいな。
ところで、ただただ来てほしくないっていう。
で、反対って言葉はなるべく使わないように当時からしてたけど、やっぱしりぞけたい思いで、勉強会はやって、結局それは色々、他の周りの海洋庁と東洋庁の住民の人たちがまあまあ基本反対で動いたんで、結局白紙になっちゃった、なったんですけど、それはそれで良かったんだけど、結構それがすごい良い勉強になったというか、エネルギー意識せずに生きてきたんだけど、まあなんかそんな食べるもの、着るものだけじゃなくて、そのエネルギー、自分たちが使う電気によってこれだけの負の海が出ていることとかを知れたっていうのはすごい良くて、そういう環境問題にその意識をする機会っていうのがその時に大きく与えられたっていうか、そんなのがジャック・ジョンソンの出会いとか結構同時期にそれが起きてたんですよ。
なので、サーファーとして何ができるかっていう時に海外でそういう活動している人たちのアクションの仕方とかもすごい引かれたというか、こういうことを勉強して、ただただサーフィンと地元の魅力とかサーフィンの魅力を伝えるだけじゃなくて、やっぱりこういう世界で今起きていることに対して動かないとまずいことになるっていう危機意識みたいなものがやっぱりすごい人並み、人よりも強く持っちゃったというか、そこからはもう本当サーフミュージックの世界を何を伝えるのか、何がどうしたのか、何をどうやって伝えるのかみたいなことをとりあえずわからないまま、ただサーフミュージックってものに23歳からこう引っ張られて千ヶ崎行って、千ヶ崎に1年いたんですけど、千ヶ崎ってなんか世界が完結してて、長男って、なんか長男の中で収まってしまう感じやったんで、なんとなくこの言葉でする、なんかここにいちゃダメだって思ったんですよ。
で、なんかそういう時にたまたまカリフォルニアに行くんですよね、なんか。
20、その23、20、カリフォルニア行って帰ってきて千ヶ崎行ったんか。
で、そのあれだ、その千ヶ崎、カリフォルニア行って帰ってきて千ヶ崎にいたんだけど、日本の少男にだけいちゃダメだろう。
話者1:面白かったし、めっちゃ勉強になったし、湘南大好きなんですけど、なんかここに、今僕はここにいちゃいけないなって思ったんです、感覚で。
で、その時に、レフティックっていうミュージシャンの仲間がいて、この間タイまで捕まって大問題になってるんですけど、今。
彼がもう本当大学時代の18歳からの大学の仲間でサーフィン。
大学時代は全然デビューしてなかったんですけど、僕がカリフォルニア行ってる時に、彼のCD、デモCDを持ってるある日本人の恩師と出会って、レフティックっていうミュージシャンがいるって、カリフォルニアでお世話になった日本人に教えてもらったんですけど、で、帰ってきたらそれがレフティックのマイクロだったんですけど、めっちゃタワレコとかでそれこそめっちゃバズってたんで、西宮くんって本名、西宮有希くん。
有希くんすげーことになってるってなって、僕、茅ヶ崎いたから、たまに東京に会いに行ったんですよね。
僕も実はサーフィンもプロ諦めて、彼もプロサーファー目指してたんで、昔。
彼は音楽の世界で実はもう大学時代から方向転換してそんなことになってて、なんかすげー奴がいたと思って。
で、彼とすごい何年かぶりに会った時に意気投合して、僕もこういうこと考えてるみたいな。
したら、レフティックが解散する、一回解散するんですけど、その年だったんですよ。
その最後の沖縄ツアーについてきてくれって言われて、サポート役で。
で、その時に初めて沖縄の地に行くんですけど、そこですごいまた一つ大きな音楽というか伝統的な音楽とか、沖縄の戦争の話とか。
いろんな沖縄でいろんなものを受けて、レフティックのおかげで行ったんだけど、僕だけちょっと2週間くらい沖縄に残って、いろいろ旅して。
はじめちとせさんっていう方とか。
あとね、そのりゅうきゅうあいっていう藍染の、沖縄の琉球の染織を受け継いでる仲間がたまたまいて、大学時代の後輩がたまたま沖縄に帰って、自分の影をついてたんで。
実はそこで、沖縄で僕は藍染っていうものと結構深くつながる。
それちょっとずつ多分この本質的な内容につながっていくんで、もうちょっと話してていいですか、これ。
で、レフティック、レフティックのおかげで、サウンドミュージシャンで成功した、国内で成功した彼らのおかげで、沖縄という土地につなげられて。
でそこで藍とか染とか、そういう戦争と平和とか。
いろんな、やっぱり沖縄ってすごい独特の歴史を持った土地なんで。
なんか音楽とか海とかっていうとこからどんどんこのサーフィン、サーフィンももちろんしてたんですけど、沖縄で。
なんかいろいろそれ以上に深いものをなんか、すごい沖縄で受け取って。
その中でも、沖縄でお世話になった、マイクロ君と一緒にお世話になってたホテルがあって、沖縄の。
そこのオーナーさんにすごいよくしてもらって、僕らが。
でそこを拠点に結構動いてたんですけど、そのオーナーさんがすごい実はなんか厳しい人で。
僕の当時のそのフラフラしてる様子を一発で見抜いて。
マイクロはいい、プロでメジャーで自分で努力して成功してお金も稼いでやってる。
で彼もやっぱその思いがあってやってるから。
お前は思いはあるか知らんけど、社会的に何者でもないし、プロ辞めてフラフラしてただの浮浪人やないかみたいな。
って言われて、まさにそうだったし。
でそのオーナーにお前はって言われた時に、いやなんかサーフィンと音楽で世界変えたいっすみたいな。
だからほんまにお前がやる気があるんやったらっつって、そのホテルに結構アーティストが集まるホテルやったんですけど、ミーシャさんっていうミュージシャンが、たまに来られてる場所やって。
ミーシャさんの社長とそのホテルの社長が仲良くて、でなんか急にそのミーシャの社長になんか、お前がやる気があるんやったら繋いであるって言われて。
音楽の世界勉強したんやろみたいな。
そんな中途半端にサーフィンしてフラフラして音楽の世界勉強するって。
全然勉強ちゃうやんけって言われて。
でなんか、それでほんまにサーフィンと音楽でサーフィン諦めたんやったら音楽ちゃんとやれやって言われて。
音楽の世界勉強しろって言われて。
で、やる気ありますみたいな。
そしたらそのミーシャの社長を紹介してあるからって言って、その翌週かな、沖縄出た翌週に、マイクロ君とその沖縄の社長とミーシャさんとミーシャの社長で、5人でご飯食べに行くみたいな。
そこでなんか、面接的な感じでミーシャさんの社長に、やる気があるんだったら来ればって言われて。
そこから音楽、その1週間後に荷物まとめて高速バスで徳島1回帰ったんだけど、もうすぐ荷物まとめて東京生活が1年間始まるっていうそこから。
そこからはほんともうサーフィン1年経って、全く海にも近寄らずに音楽業界にずっといましたね。
その1年間がもう、すごい濃厚だったんですね。
ミーシャさんがアフリカのコジのホワイトバンドって活動をやってたりとか、環境のこととかもめちゃくちゃ、ミュージシャンとしてやっぱすごいソーシャルアクション活動もやられてて。
ミーシャさんの社長とミーシャさんの運転手、ほんと僕何も仕事できなかったんで、ただただ運転手と雑用をやってて。
で、大きなアリーナとかのツアーを回ったり、ほんとただただ現場現場に毎日毎日行ってたみたいな。
で、音楽業界のエイベックス社長さんとか、よくわからないけどすごいみんなが知ってるような人たちと毎日のように会って、ひたすら僕はそのそばでずっといるみたいな。
っていう日々を過ごしたり、そういうミーシャさんのミュージシャンとしてじゃなくて、社会活動のこととかも勉強させてもらったりして。
で、最初の半年がミーシャさんだったんですけど、ちょっと途中から沖縄の島歌っていうのを歌ってる宮沢和文さん。
事務所は別だったんですけど、そのミーシャさんの会社がサポートしてる形でつながってて、宮沢さんの会社の方が人手が足りてないから、お前ちょっとそっち行ってこいみたいな感じで、宮沢さんのアシスタント残り半年間勤めるっていうので、宮沢さんとの半年間がまたすごい、これが伝統的な世界につながっていく入り口だったんですけど、沖縄の島歌で国内で成功して、それがアルゼンチンとか南米とか中南米中心に世界に伝わっていって、島歌ってやっぱすごい海を越えて歌われてるんで、結構国内外のバンドと一緒に当時、宮沢さんはバンドを中止して、他のグローバルメンバーとバンドやってたんですけど、それのツアーについて行って、ブラジル人とアルゼンチン人とキューバ人とみたいな、それのツアーも行ったりしたんですけど、それと別で一人で三味線とギターだけ持って、日本全国47都道府県を巡る乗り道ツアーもやってて、それの運転手と記録、ブログとか文章が書けたんで、ブログはミーシャさんのライブもやってたんですけど、宮沢さんの記事をブログ担当で一緒にずっとついて回ってて、その時に宮沢さんが、本当宮沢さんも沖縄の戦争を体験したおばあさんのために島歌を書き下ろしたんですけど、そういう特に平和とか戦争とか、あとは伝統的なそういう日本の文化、フードを大事にするっていうのはずっと音楽の中にあって、そういうのも分かったんですけど、その47都道府県を巡るツアーは、特に都市部とかじゃなくて、新潟でお米作ってる、有機農業やってる農家さんのとこ訪ねて行ったりとか、佐渡島だと陶器を守る会の人たちのとこ行ったりとか、京都だと農学堂、大阪も農学堂行ったり、なんかやっぱ各都道府県のそういう結構歴史文化に深いゆかりのある場所とか人を訪ねて、そのツアーを組んでて、そこに三味線とギターで島歌と自分の歌を届けながら、そういったところにメディアも読んで、そういう活動、各地域でやってる人たちの活動とか土地を、自分は歌を通して世に伝えていくっていうか光を当てていくみたいな、そういうツアーだったんですよ。
で、改めて僕はジャック・ジョンソンとかで世界に視野が、視点というか意識が行ってたんですけど、日本とサーフィンだけじゃない、その日本の良さっていうのは、宮沢さんの寄り道ツアー、東京に行って、東京に行ったんだけど、東京行ったことによって日本の各地域のその存在というかに気付かされたというか、ミーシャさんのアリーナとか世界のアフリカとかっていう大きな、またまた違う宮沢さんっていうアーティストの、日本にもうちょっと特化したような、沖縄のアーティストっていう、そのお二人のアーティストにすごい影響されて、ジャック・ジョンソン、サーフミュージックっていうより、音楽、ミュージシャンのそういう成功されてるというか、ジョン・レノンとか、ボブ・マーリーとか、マイケル・ジャクソンじゃないけど、やっぱり日本のミュージシャンもすごいなっていう、もっと日本のミュージシャンが評価されたらいいのになっていうのはすごい思ったりしつつ、その1年は東京でそういったことを経験をさせてもらって、それが確実に今の活動のコアになってて、僕の中で。
話者1:で、その1年しかいなかったのは、僕が意図的に自主的に辞めちゃったんですけど、それが、やっぱ本質僕サーフィンしたかったんで、やっぱサーフィンしたいっていう、東京にいるともう全くチューやなく、休みもなく、本当もずっとやっぱ面白かったけど、やっぱサーフィンもできないし、自由もないし、めちゃくちゃ面白かったから、ローラーコース、ジェットコースターみたいだったけど、気づいたら結構もうパニック障害みたいな、精神的にもう病んじゃってて、やっぱ東京の暮らしがあったんでしょうね、サーフィンできないのとか、で、なんかそういう精神的に、病院に行くほどじゃなかったんですけど、病院に行くほどだったのかもしれないけど、結構もう汗かいて、膝汗かいて、動機して、多分ほんまにそういううつ病パニック症みたいなのが結構出始めて、これまずいと思って、原因はサーフィンしてないからっていうのが、でまぁ、普通もうね、沖縄のホテルの社長からもね、数字通し、そんだけのね、紹介した人間が辞めたらめちゃめちゃ不義理なんで、絶対やばいっていう、やったけど、やっぱ僕ちょっとその辺、すごい自己中なやつで、なんかもう自分を大事にしたんでしょうね、たぶん。
話者1:じゃあ謝って、辞めるっていう選択肢を取って、もうみんなに、社長、ミヤさん、ミイシャさん、沖縄の社長、みんなにも謝って、辞めますみたいな。
話者1:辞めたんだけど、もともとミイシャの社長さんに雇われてたんで、最終的にミイシャの社長に許可取って、仕方ないって言って、ミイシャさんも、れきくんは風天のサーファーだから、東京入れないよって言って、仕方ないよとか言ってくれて、マジすいません。
話者1:でも最後ミヤさんが連絡きて、ちょうど翌年がブラジル100周年の年だったんですけど、ミヤさんがブラジルの観光大使で、自然大使で日本の、それで翌年ブラジルのツアーが大きな企画があって、僕にどうしてもそれ一緒に来てほしいって言われて、言ってくれってすごい人生の多分、すごい大事な局面やったんですけど、なんか僕はそれを迷ったんですけど、なんかサーフィンを取っちゃったんですよ。
話者1:サーフィンした。
話者2:そうなんだ。
話者2:こっち行ったらね、なんかすごい世界がまた待ってたらしい。
話者1:でもなんか、あとはやっぱり沖縄の社長とB社の社長さんに、B社の社長に対するたぶんあれが一番かな。
話者1:辞めたのにミヤさんと一緒に行くってなった。
話者1:そこもあって、いやこれは無理だ。
話者1:っていう言い訳でサーフィンを取ったっていう。
話者1:本当にめちゃくちゃありがたくて、そのミヤさんがじきじきに、なんて一体ない、なんて無礼なやつなんだって自分でも思う。
話者1:でもその時にもう僕、次行くあてなんもなくて、ただサーフィンしたかっただけ。
話者1:海に戻りたかっただけなんで、その時点で何にも成し遂げてないし、音楽業界で何か仕事をね、何か覚えたわけでもないし、一年行っただけでこれどうするっていう話で、海洋庁に戻る、ただそれは一番地元の海でサーフィンできていいんだろうけど、さすがにこの状況で海洋庁なんか帰れないだろうと思って。
話者1:で、その時に自分が行ける道が唯一、国外、海外で暮らすっていう。
話者1:自分がやれてなかったんだけど、やっぱりその環境のこと、アートのこと、サーフィンのことを日本国内じゃなくて、やっぱ海外で旅とか一時的な滞在で行ったことあるけど、やっぱ暮らしてみないと分かんないことが絶対あるっていうのは自分でもあって、自分ができてなかったのはその海外での暮らしで、暮らすことによってこう体験することっていうのは、特にオーストラリアがサーフィンが国技でありながら環境先進国で、食べることとかオーガニックなこととか、あとエネルギーのこともそうだし、サーフィンが国技でありながらやっぱりそれ以外の社会活動につながったサーファーが多かったんですよね。
話者1:そういうオーストラリアという国に行って、自分が多分やりたいことっていうか、学ぶべきことがいっぱいある国だっていうのは分かってたんで、とりあえずオーストラリアだったらワーキングホリデーもあるし、すぐ仕事できるし、オーストラリアに行くしかないみたいな。
話者1:すぐ用意して、東京から次すぐ時間経たずに、オーストラリアのワーキングホリデーでとりあえず2年間マックスで行くみたいな感じで、オーストラリアに行くっていうのが次のステップとしてあって、そこではいろいろ端折るけど、1年3ヶ月結局いたんだけど、オーストラリアゴールドコーストから入って、バイロンベイ、ピッピータウン、シドニー都市部、シドニー、メルボルン、アートの街、あとニュージーランドを渡って、ほんとすごいアーティストとか、すごいフェスとか、片合間っていうか、普段は中華街とかで日本食レストランでバイトしながら、カフェでバイトしながら、ずっとバイトをしながら、要所要所でいろんな人とかフェスに行って、現場で体験してみたいな、農家さんのとこでちょっと住んだり、柿の養殖の水産業者のとこで働いたりとか、結構オーストラリアで、一次産業とか農業とか、あとは環境問題、環境活動家、ミュージシャン、アーティスト、かなりいろんな人たちにも刺激を受けたというか、1年3ヶ月間はもうひたすら海外でいろんな人たちと会ってたっていう、やっぱそれは茅ヶ崎とか東京ではできなかったことなんですけど、やっぱり自然が近くにあるところが多いから、国立公園とか、いわゆる土木工事の景観とかね、いろんなところの細部にわたって勉強するところがいっぱいあって、海沿いの街もみんなテトラポットとかもないし、自然石とか木とか木材とかで海岸の環境を保護されてるし、ほんといろいろ学んで、まだもう1年くらい入れたんだけど、でもちょっとなんか思うところがあって、27歳だったんですけど、なんかやりきったなっていうか、やりきってないんだけど、このままなんか勉強にはなってるけど、バイトして皿洗いして、俺周りの27歳とかみんなちゃんと就職してどうのこうのでね、プロで成功してたりミュージシャンで成功してたりとか、俺全く何にもないっていうのに不安とずっと戦ってたんです、常に。
話者1:海外でこれいてどうなるんだろうっていうのと、やっぱ最終的に地元に帰って、そういった周りで吸収してきたものを地元に還元したい、そのために出てたところもあるんで、なんかわかんないけど、もう帰らなきゃと思って。
話者1:やったのが27歳で、やっと帰ってくるんですよ。
話者1:帰ってきた時に東京に2週間ちょっと滞在して、お世話になった東京の人たちにもミイシャさんとかミヤさんとかにお礼をするっていうところから帰国して、自分1年半ちょっと海外行ってきましたっていう、これから地元に帰りますって挨拶周りでちょっと2週間東京にいて、沖縄にも行って、沖縄のオーナーにも直接会ってお礼して、自分は地元帰りますって言って、何をするかも決まってなかったんですけど、とりあえず帰って、ゲストハウスとカフェでもやるっていうのを決めて、帰ってきましたみたいな、とりあえず地元帰りますって言って。
話者1:東京で挨拶回りしてるとき、たまたま東京ビッグサイトで、日本の企業が集うオーガニックエコフェスティバルっていうのがあって、結構やってるんですけど、当時は結構珍しかったけど、やってて。
で、なんか日本のオーガニック事情、環境事情どうなんやろっていうのを、まあ帰国して間もなくだけど、たまたまそういう情報が入ったんで見に行ったんですよ。
したら、そこでやったんですけど、そこに大きなブース、大きな企業がいっぱい集まってる中で、すごい小さなブースなんですけど、藍染を展示してるブースがあったんですよ。
すいません、やっと藍染にたどり着きます。
で、藍染って徳島で育ったんで、なんとなく知ってたし、耳は知ってたし、藍染の服も古着屋で昔買ったのが1着だけ持ってたり、なんか藍ってどっかで青色好きだったし、なんとなく認識はしてたけど、その会社のブースにふらっと吸い込まれて入ったら、全身藍染の衣装で白髪の70代ぐらいのおばあちゃんがいて。
そのおばあちゃん、カメちゃんって言うんですけど、カメちゃんがもうほんとジブリの登場キャラクターみたいな、ほんと藍染1色で真っ白な髪の毛でメガネかけて。
が、そこでカメちゃんと必然、偶然の出会いをするんですけど、藍染が藍っていう植物であって、それが種まき土から、種まきから農家さんが作ってくれて、4ヶ月間の発酵のプロセスを経て、さらに木材、木を燃やした後の灰とか、日本酒とか、そういう自然原料をもとに発酵とかプロセスを経て、生み出される染料なのよみたいな話を。
それの日本一の産地が徳島なんで、私たちはあるテキスタイル企業、しかも海洋庁の関連企業だったんですけど、それが関連企業としてアイを取り入れてやり始めてるんですっていうのを聞いて、え、っていうか海洋庁ですかみたいになって、僕海洋庁なんですけど出身っていう、全然知らなくてそんな会社あるって、しかも僕今から海洋庁変えるんですよね。
で、ちょうどその会社が藍の栽培を右も左も分からず始めた1年目の歳だったらしくて、要するにいるみたいな。
で、僕が環境のこととか、やっぱりそういうすごい大事に、本のこと大事にしようとしてることとかを話してたら、もう絶対うちに来てみたいな。
で、そこから藍の世界に入っていくっていう。
これ一旦そこが、そこが今日全然話すことの内容の多分1%ぐらい、1割くらいしか入れてないけど。
でもサーフィンっていうところから藍っていうのにたどり着いたとこまで来た感じだよね。
結構それが一番自分の中でこれからも大事なことなんで、なんか今話し切っちゃいましたけど。
なぜ僕が今の会社をやってるかって、やっぱサーフィンと音楽とこの地元海洋庁とやっぱそれを通じて繋がった世界。
やっぱそこで学んだことを、これからもずっとやっていくための一つのツールとしてすごい大事な藍という世界に出会ったんですけど。
やっぱ藍に関わってる根底にそういう10代20代の経験があったんで。
そこはなんかやっぱ他者にはなかなかね、これがなんで僕がそんな藍やってんのみたいな。
しかもなんか藍も別に職人でもないし、なんか何なお前って多分よく言われるんですけど、なんかやっぱそのアイだけが全てじゃないっていうか。
なので藍の職人にもなりきれないし、藍の農家さんにもなりきれないのは、やっぱ自分はなんかその本質的ななんかベースとなるサーフィンとか音楽って自分が一番好きなもの。
手放せないからだし、海洋庁もそうだし。
なんかそういう10代20代の経験があってのアイとの出会い、つながりの始まりっていうところですね。
サーフィンとか音楽とかを通して感じてた世界があって、それが環境のこととか環境問題とかその他、そういう社会問題にも接続される何かであって。
その何かをどういう形で表現していったらいいかっていうところを模索する中で、おそらく藍っていうのに出会ったって感じなのかな。
だから藍そのものというよりは、そこの根っこにあるものが多分あるっていうか、それが多分れきくんの本体というか、実体になるれきくんで。
その都度いろいろそこにつながると思ったものをやってきたって感じ。
流れ着くように。
それで今の話だと一旦故郷に帰ってきて、帰る寸前に藍っていうのに出会ったっていう、ちょっと劇的な感じもありつつっていう。
サーフィンと音楽だけでも多分限界を感じてたんですよ。
で、やっぱアートとかミュージックとかそのサーフっていうのは、いわゆるなんかそのカルチャー。
カルチャーって文化があるんでしょうか。
今の現代社会一般の人たちからしたら、ちょっと主流じゃない文化じゃないですか。
音楽に関しては主流だけど。
レゲエとかサーフミュージックとかロックとかでも、やっぱり世界がカテゴライズされてしまうというか、もっと広く全体にいっては、ジョン・レノンでもマイケルですらも無理じゃないですか、それは。
そこが届かない層って絶対あるんで。
おじいちゃんとかおばあちゃんとかわかんないけど、それに全く興味ない人とか。
話者2:そっか、音楽ってなんか普遍的なイメージもあるし、音楽自体にはそういう力があるけど、ジャンルであったり背後にあるカルチャーみたいなことになると、そこでしか繋がれない人たちが中心になるから。
本当に一般の人とか、変わっていく社会の対象になるような大多数の人には、あんまり意外と響いてない、伝えていくツールになりづらい面もあるのかな。
話者1:そうですね。
コミュニケーションツールとして限界があるな、みたいなもの。
話者2:なるほど、面白いというか。
話者1:サーフィンに続き音楽とかアートに対しても感じちゃうっていうか、そういう癖なんでしょうけど。
音楽とかアートがそういうものだって思うのがある意味普通というか、一般的な人の認識じゃないですか。
だからそこに留まれなかったっていうのはすごくらしいというか、何かパーソナリティに関わる何かなのかなっていう気がする。
やっぱりそういう環境問題とかもそうやけど、全人類に届けなきゃいけないことなんで。
だからそこに限界を感じたりとかもしてたのかもしれないですけど。
話者2:そうだね。
音楽もクラシックやってる人とロックとかレゲエやってるサーフミュージックまた全然違うし。
話者1:確かにね。
音楽っていう意味では音楽の力は圧倒的にすごい進めてます。
だけど、何かどっかでやっぱりそうじゃない人たちの存在を気にしてしまうっていうか。
一般の人たち、一般って言っても何かよくわからない。
そういうのが自分の暮らしの中にない人たちもいるじゃないですか。
普通にタバコ吸って缶コーヒー飲んでみたいな。
それに全く疑問も持たずに、喜びも別にパチンコ言ってるのが喜びの人もいたりするし。
よしよしじゃなくてそういう人たちも含めている。
社会で。
そういう人たちは結構多い。
話者2:多いよね。
話者1:そうだよね。
僕らも身体のこととか扱う領域、体を鍛えるっていう意味ではなくて身体性を目覚めるみたいなことは好きだし大事だと思ってるから。
そういうものをベースにはしてるんだけど。
例えば僕の弟なんかはそういうのは意識はないんだけど。
結局体では草野球とかやるわけですよね。
それはそれでそこのコミュニティの文化とかもあるし。
でもそういう中には僕らのメッセージっていうのはなかなか届かない。
といって境界がすごいあって断絶があるわけでもないんだけど。
なんか言語になってないなっていうのは前からすごく思ってはいた。
そういう人たちに感性が全くないかっていうことでもない気もするじゃないですか。
もうおっしゃってる人もいるかもしれないけど。
そこをそんなに運動に関われば関わるほどそこの溝ができるみたいなところとかも感じるし。
だんだんマニアックになる要素も出てくるとか、そこを感じてたのかなって今聞いてて。
その中で藍も純粋に藍という植物とか発酵させる染料の技術とかっていうのにすごい感動して。
海外行ってなんかちょっと鼻高くなってたっていうか。
日本遅れてるよねみたいな感じで帰ってきてたところもあったんで。
やっぱり日本最先端やんみたいなところに立ち返るんですけど。
もともと宮沢さんとの寄り道のツアーとかで全国行ってたけど。
やっぱり一つのそういう日本の文化、そこまで深く辿ることはしてなかったんで。
なんか海外やっぱオーストラリアとかヨーロッパの人たち、ハワイやカリフォルニアの人たちの方が自然を大事にするとか。
そういう意識はすごいし、そこで1年以上暮らしてきて。
すごいそれを日本にこの感覚を持って帰ってきてやったぜみたいな感じだったんやけど。
いやいや失礼しましたみたいな発行とか。
西洋人もねファーメンテーション発酵とか言うし、土造りとか。
それがもうまさに日本人は凄まじい技術を作り上げてきた中で。
その着るものも何を食べて何を着てどういう暮らしをするのかが大事な中で。
着るもの全然見てなかったわと思って。
バッて惹かれるというか。
すごい、そうだよね。
話者2:すごい、そうだよね。
話者1:これは伝統工芸は日本すごいし徳島すごいなと思って、純粋にその色が好きだったし、その海が好きだったし、その空と海とかそのノーターン、アイってその止める回数でノーターンが出るのが、まさに前回も話したその空と海とか、海外行っている時とか心細かったりホームシックになった時とかに、波待ちしながら海と空見てたらそれがシシクイの海とつながってるみたいな、こういう海と空の景色ってすごい自分の中で特別だったんだけど、それを植物が生み出せる、手仕事を通して、そこに微生物とかいろんなものが関わってて、その時はまだ工房大使空海まではそこまではたどり着いてないんだ、意識はないんだけど、空と海だもんね。
話者1:まずはその海、波乗りしながら国内がいる時の自分の大事なその景色の海と空の景色と、その天然愛が生み出すその青のグラデーションがリンクして、これはもう間違いなくこれ、愛、世界に関わっていきたいというか、自然とも愛に惹かれていったっていう。
話者1:で、伝統工芸で、僕もその時気づいたぐらいだから、やっぱり多くの人がそれを知らないってことが問題だし、そういう意味ではサーフィンと音楽以上にマイノリティ、サーフィンに近いな、西成と獅子宮みたいな感じで、マイノリティの共通性みたいなものにかかるかもしれないです。
話者1:そのマイノリティ同士をつなげることでイノベーションを起こせるっていう感覚があったんだと思うんですけど、これつなげる、絶対これつなげないとっていうので、しかも海洋庁のトータスっていう法制会社のおばあちゃん、そのおばあちゃんはすごい僕の師匠でもあるんで、その方がまさにネイティブアメリカンとか、いわゆるインベの世界とか、アワウタとかノリトとか、フナイソウケン、フナイさんっていう、水は答えを知っている江本さんとか、結構そういうスピリチュアルと世界の、現実世界で体現っていうか活動されて、つなぐ活動されてきているような人たちとめっちゃつながってて、ガイアシンコリーの辰村さんとか、そういう世界を今までサーフィン音楽でやってきた世界とはまた違う、その世界に亀ちゃんが愛を通して僕を引き込んだっていうか、愛を通してね。
話者1:そうなんです。
話者1:亀ちゃんはだから、亀ちゃん自身も愛の人だったけど、愛だけじゃない人だったんで、そこからアワインベっていう、インベとかね、日本の天皇とか、矢を寄ろずとかアニミズムとか、あるじゃないですか、そういう世界。
話者1:愛を通して、ルーツ的なものの探求みたいなところで。
話者1:凄まじい縄文がどうとか、ちょうど18年前ぐらいですけど、当時まだそういう世界にあんまり行ってなかったけど、亀ちゃんっていう人と愛染めに海外から帰ってきたんやけど、また違う世界に入っていくみたいな。
話者1:そこから地元帰って、ゲストハウスと宿、とりあえずそんなすぐにそこで働くってならなくて、もともとゲストハウスとカフェやろうとしてたんで、2年ぐらいやってたんですけど、やりながら合間で畑手伝いに行ったりしてて、そんな混乱してたら3.11の地震が起きて、その時に亀ちゃんが会社でボランティアで現地に布おぐつと布ナプキンを愛染めで染めたら、抗菌作用とか消臭作用があるからっていうので、それを何百枚も染めて現地に送るっていうのをやりだしたんで、何日間か徹夜で一緒に染めして、っていうのをやってたんですよね。
話者1:その体験で自分もカフェとゲストハウスを中途半端にやってるんじゃなくて、やっぱりトータスの会社の仕事、ちょうど人でもいなくて、この会社で求められてるし、全部一回やめてトータスに、っていうので初めてちゃんと就職したんですよね、会社に。
話者1:そこで6年間ぐらいいて、畑しながら染めしながら、デパートで販売とか、あと縫製とか、愛染めにまつわることを仕事というか、勉強しながら仕事としても雇ってもらって、すごい安い給料だったけど、なんかもう就職する時点ですごいっていう、僕が。
話者1:一応サラリーマンとして、結構自由に動かしてる。
話者1:それでトータスを拠点に吉野川流域の愛の先生、農家さんとか染め師さんとか、あと染める原料の麻とか、色んな勉強もやっぱ同時に、徳島の今まで海洋庁しか知らなかったんですけど、吉野川流域に足を運ぶ、その前後でやっぱ徳島市内とかにも立ち寄って、徳島市とかも全く行動範囲外だったんで、飛び越えて関西とか東京とか、全然市内のこととか、開封以外の徳島のこと全然知らなかったんですけど、吉野川流域の愛をはじめ、インベの麻とか、鶴木産系のいろいろ、天皇家とのつながりとか、泡踊りとかね、いわゆる文化工芸、あと宗教と、あとそこにエンタメというか、音と踊りとか、そういういろんな芸能も含めて、徳島ちょっと、江戸時代とか、大正明治、明治大正、昭和の頭にかけてぐらいまでは、この徳島ってすごい場所やったんやなみたいな、愛の勉強を兼ねてちょこちょこそういうとこに行く中で、愛以外のこともやっぱ、それが文化人類学らしいんですけど、そういう視点で物を見るっていうのは、他の愛が好きでやってくる、愛を職人としてやっていくような若い子たちが何人かいる中で、僕はそっち行けなかったのは、やっぱそういう、引いて物を見てしまうから、それを10年ぐらいやってたんです。
話者1:この15年ぐらいやってるんですけど、その入り口が、その愛との出会いで。
話者1:神奈川流域とかに通い出して、徳島市内で阿波踊り、毎年そごうっていう百貨店があってそこでトータスの藍染めフェアで毎年お盆の間一週間そこで僕現場立たされてたんで、そのおかげで毎年お盆の4日間阿波踊りっていうのはずっとあるんですけど、それの4日間阿波踊りも毎年フル参戦できて。
話者1:阿波踊り半端じゃなくても、それも全然知らなかった徳島、世界見てなかった、全然見ていなかった徳島を30代から学び直すというか。
話者1:なので世界に対する未練もあったし、もっとお金のせい、いろんな経済的な事情とか家庭の事情で海外ずっとふらふら知らなかったのもあったんで、世界に行けなくなっちゃったというか、今もその葛藤はあるんですけど、そのおかげでその代わり今自分が置かれている状況でできることがいわゆる中を掘っていくっていう作業だったんで。
話者1:世界に向いていってた意識と行動を次インナーに向けてずっとやってきた、この15年って感じなんですけど、それをまたアウトプットしたいなと思いつつ海外に行く縁があんまなくて、今はそれで悩んでるというか。
話者1:このまま掘り続けてアウトプットしないのか、アウトプットするのか、アウトプットは外人がいっぱい来るからその人たちにアウトプットしてるんですけど、自分自身が外の世界に行くっていうか、アクション、物理的な行動ができてないんで、そこはちょっと葛藤もしてるんですけど。
話者1:なんせできないおかげで、でも今できることが、今与えられている状況の中でやってきたことが地元のディスタバというか。
話者1:だからそのエネルギーと行動によって、多分他の人には持ってないいろんな知識とか経験が、多分蓄積されてはいると思う。
話者2:そうだね。
話者1:それを掘ってアウトプットするっていう先は日本国内っていうよりは、どっちかというと世界というか海外のほうが強い。
話者1:日本の文化みたいなイメージもあるのかな。
話者2:そうでもない。
話者1:なんかどこでもいいっていうか、やっぱり地元の人たち、地元の人たちに伝えたいとか次の世代とか、時間軸、空間軸両方でなるべく広く深くいきたいんでしょうけど、やっぱりなかなか理解されにくいから。
話者1:届く人たち、別に時間、空間、年齢とか関係なく届く人たちにアウトプットの機会を与えてきてもらったと思うんで。
話者1:聞いてくれないと話せないから、限られたすごい小さな拡散しかできてないけど、アウトプットしかできてないけど、インプットしたらアウトプットしないともうやってられないじゃないですか。
話者1:それはできる範囲で、ただそれを自分が、それ世界に行ってやってる人たちもいるし、他の業界もいる。
話者1:本当は日本の英知を世界が今求めてるっていうんだったら、僕もそういうのしなきゃいけないんだろうなとか思ったりしつつできてないし、そこはちょっと葛藤してるけど。
話者1:確かにね、願いとしてはそこが結構強くある、根っこに感じはある。
話者1:若い頃に途中で挫折してるんで、やっぱ海外で暮らすことも本当はスペインに行きたかったんですけど、僕今もサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の話に全然たどり着かなさそうだけど。
話者1:やっぱ巡礼でつながりもあるし、スペイン、サーフィンの聖地でもあってそういうとこも行けてないっていう、ちょっとした未練みたいな海外に対する未練とか憧れは今もあるんですけど。
話者1:でも自分が行くことはできてないにしても、でもやっぱり20代より今のほうが圧倒的に海外の人たちとのつながりは広がってるんで。
話者1:それは自分がやっぱ掘り下げたことによって得てきたものを価値として認めてくれる海外の人が、やっぱ20代の僕はここまで話せなかったし知らなかったし。
話者1:僕が培ってきた、なんか受け継いできた、この土地で受け継いできた、学んできた知識が感覚が魅力に感じてくれる外国の人っていうのはすごい。
話者1:やっぱ20代の時は多いし、ただただサーフィンとか音楽だけをコミュニケーションツールにしてた20代と今は全然違うっていうか。
話者1:より届くようなあれだよね、なんか状況というか場に立ってるっていう、ある意味20代よりも今のほうが海外とのその距離が近いっていうか、空間的には遠いだろうけどそうじゃない、近さがある気は感じは。
話者1:ずっと感じてくるし、やっぱそれがローカルっていうか、時間空間にとらわれないなんていうのかな術というか。
話者1:こういうのみんなが学んだら空間によって不動産の価値が変わるとかっていうのがなくなると思うんで、それは次の世代に伝えていかなきゃいけないなっていう。
話者1:海外に行かないと海外と繋がれないっていうその概念、都会に行かないと都会の人と繋がれないとかっていう、そういう感覚は違うっていう。
話者1:この自分の足元を掘り下げることによって外の世界との距離が一気に縮まるっていうこともあり得るっていう。
話者2:すごい同感で、ちょっとだけ僕の話をすると、出版をやってても日本のマーケットの限界というか、本読みの人も減ってきてるみたいな話とかある中で、結局その中でいかにみたいなことをやることにそんな興味持てなくなったっていうのはあったんですけど。
話者2:コロナの前のある時期に自分の中のインスピレーションで、国境と言葉の壁を越えるっていう、すごくメッセージというとあれだけど、湧いてきたんですね。
話者2:思いが、要はどういうことかっていうと、すごい単純な話で、自分は日本語しか使えてないから日本でしか活動できないと思っていたんですよ。
話者2:それは事実で、僕は英語も使えないし英語圏に知り合いもいないしルートもないっていうのは全部だから、できないっていうだけだったんだけど。
話者2:別に扱ってるものは普遍的なものだと思ってたから、意識の中で結局自分で壁を作ってただけなんだってことに、すごい気づいたんです。
話者2:だから具体的に海外に例えば本を出版するとかそういう話って別の話で、そもそもの自分たちの立ってる場所はそんな狭いものではないんだなって気づけたのが、僕の中ですごく大きかったんですね。
話者2:そういう流れもありつつ、いろいろはしょると、例えばトラちゃんも、なぜか彼には聞いてないんだけど、ちゃんとやっぱり海外に伝えたいっていう意識をすごく今回の本も持ってるんですが。
話者2:それは単なるガイドブックみたいなものではないっていうところの、多分ほぼ彼も言語化できてないような感じもするんだけど。
話者2:そこにすごいれきくんの今日の話とかすごくリンクするような印象とか、僕らもどこかで感じてその方向に進んできたものが重なるような感じがした中で、今日のストーリーを受け止められたっていうのかな。
話者2:そこが多分これから他にも出会う人たちとも根っこで重ねていきたいところ。
話者2:よく言うローカリゼーションみたいな根っこにあるコアみたいなものを、多分国永先生とかもそれを違う形で持ってるから共鳴されたりとか、っていうのも起きたり。
話者2:もう少ちょっとそこを言語化するのか、ビジュアライズして見える化するのかとか、そういうことをしばらく対応して素材を集めながらやんなきゃいけないのかなっていうふうに、やっぱり思えた。
話者1:全然本当今日も全く僕が話すべき内容の本当の内容の多分3割ぐらいしか話せてないんですけど、自分が多分アウトプットする上で多分そこを話し切らないと次にいけないみたいなのが多分出てきちゃったっぽくて。
話者1:すいません、ごめんなさい。
話者2:いやいやいや、すごい面白い。
話者2:根っこの方向にいろんな要素で断片的にはイメージできるんだけど、すごく例えば社会運動的なことをしたりとか、さっき出てきた船井さんみたいな人たちの活動とかもリスペクトはするけど。
話者2:やっぱり地球に浮きやすい面もすごい感じてはいたんですね。
話者2:そこに繋がってるようにする人たちに見られる傾向としてね、でもすごく大事なことも同時に言ってるみたいな。
話者2:でも社会に繋がり切れてない感じとかだから、それに安易に繋がっちゃうと僕らも社会から離れちゃうみたいな。
話者2:そこの微妙なそこのバランスが分かる人と分からない人がいるって部分もあって、突っ走っちゃう側の人とかね。
話者2:だからトラちゃんも意外に突っ走っていそうで、ギリギリのところでなんかすごい境界ギリギリのところに立つの好きみたいな人だと感じてるんですよ。
話者2:だから信頼ができる人だなってずっと一緒にいて感じられたんで。
話者2:単にぶっ飛んでる危ない人ってわけでもないかなっていう風に思えたのも、だからその辺がすごく大事な中心に置いておきたいところ。
話者2:そこに今度肉付けをして、じゃあアワイについてももう少しディテールをとか、今度空海とかねみたいな風にしていけば。
話者2:なんかこう一見無関係なものでは見えているものでも一つの世界に統合していけるみたいな、そういう方向でやれたらいいのかなって思いました。
話者1:もう本当あのカメちゃんとかもう浮世離れしまくってるんで。
話者2:そうなんですね。
話者1:なので多分ここ5,6年かな、トータスをやめたカメちゃんもトータスやめちゃったんだけど、いろいろ変化があって今一緒に活動してないんですけど。
話者1:やっぱそういう変化があってそういうカメちゃんに学んだこととか十数年前、今だから17年前とか18年前にあって、その時すごい衝撃受けてめっちゃその時ブワーってなった。
話者1:あの子供帰ってあの時めっちゃブワーってなったけど、やっぱりどっかで世間からマイノリティーのままやし、世間からしたらその超だからそこに対して僕はなんかそこで納得できないっていうか、そこにとどまれないから次の変化を求めてしまうっていうか。
話者1:毎回毎回でも、やっぱりサーフミュージックもそうだし、自分の中では体制とか大いなるものに対してちゃんとそこは配慮はするけど、そこが失ってるものみたいなものが絶対的にあるし。
話者1:自分が関わってきたマイノリティーの世界に、そこを絶対忘れて体制に飲み込まれたら終わりだと。
話者1:思ってるし、でも今時代がかなり変わってきてると思うか。
話者2:変わってきてるね。
話者1:その大きなものの方がむしろ由来でいて交換をしないつつあるというのと、あとでもマイノリティーの方もちょっとあまりにもルサンチマンが強すぎる部分で動けないところもあるからマイノリティーのところに持ってる普遍性っていうのは本当は大きなものに当てはめられるでもあまり反発しすぎてルサンチマンというか反発が強すぎるとその接続を自分で拒否しちゃうみたいなところもあるように感じていて、だからやっぱり統合って話なんだけど感情的にそれがあまり好きでない人たちもいるわけだと思うんですよ。
実体はワンネスとか話をしていても動きとしてワンネスにならない方向も感じはするわけね。
トラちゃん理由に言えば悪い意味じゃなくてね、彼は必ず言うから。
話者2:絶対悪い意味じゃないよね。
話者1:悪い意味じゃなくてとにかく言うつもりで言ったんじゃなくて、多分客観的に見てそうかなっていうところなんで、そこのところの微妙な塩梅について共有し合える人たちが、多分新しい社会とか世界を何らか作っていけるだろうっていう可能性を感じるんですよ。
だかられきくんはそういう感じの人なのかなという予感があり、今もこうしてきっとそうなんだと思いながら喋らせていただいてるって感じかな。
話者2:大事なお話してるのよ。
話者1:なんか体制が変わって形勢が逆転し始めたときに、この間もちょっと言ったかもしれないけど、その体制側に味方しようとしてる自分がいたりして、なんとなくあれみたいな、今は結構そういうのあって、自分の居場所はかなり神経張ってないとなんか難しい感じないですか。
話者2:なんか最近で。
うん、わかるくまつとかでほら、その上位とか言ってて、外国人打ち倒せみたいな、でもある段階でやっぱり外国派というかさ、体制側に近いところに変わっていかないと、結局は担い手にはなれないみたいな。
そこのでもそこで誤解されてね、当時は殺されちゃう人とかもいたり、ですごく危うい中でその後出来上がった明治の政府ってのがいいか悪いかともかく、構造としてはそういう流れっていうか転換期が起こるから、微妙に難しいとかあります。
けどね、でもそういうもんだなっていう気もしてる。
話者1:確かに、今明治の幕末から明治にかけて近い感じかもしれないですね。
話者2:そうかもだから、結構その中で体制側につけるかどうかみたいなをね狙うのもなんかナンセンスな気がするんで、体制側に残らないとみたいになったらなんか変だし、なんかそれはそれでそこまで江戸明治ほどその政治に関わられる感じじゃないと思うんだ、多分。
話者1:確かにそこはあるけど、似てる感じもありつつ、でもやっぱ体制にどっぷり染まりすぎてる人もやっぱり身を取れづらくなるだろうし、単に反発しているだけでも何も担えないっていう両面があると思うんですね。
だからよく身の処し方みたいなのは難しい点はどの時代も変わらないかもしれないですよね。
暗殺はされないかもしれないけど。
話者2:本当なんかそれは確かにそうかも。
話者1:今はそういう変化、空気が変化がわかりやすく起きてる感じしますね。
うちもちょっと関わってるAIが急に出てきて、それは社会のインフラを確実に変えようとしてるんで、それはもう実際に明治維新のみたいなメタファーとしてかかってる人は普通にいるんで、やっぱりでも当時の空気で今は明治維新だって思ってる人がそんなにいっぱいいたかって嘘とも言えない中の当時生きてた人たちがね、庶民に至る人たちまでは、そんなね歴史の証人のようにして生きてるわけでもない中で急に変わっちゃったみたいなね。
急に長漫画やめなきゃいけないとかね、みたいな世界が。
だからそれは今に当てはめても、似たような急に知らないうちに何これみたいな。
そこでいろいろ煽りを受ける人もいるかもしれないしでも変わらざるわけなくなってくるようなのが、この1年2年とか数年の中で起きるような印象もありますもんね。
話者2:まあまあそんな感じ。
話者1:そういうのも含めていろいろ今年になってまたよりそういうのを考える時間が増えたのか分かんないけど、一旦すいません、ちょっと子どもたちは来ちゃったから、そろそろいい頃合いかなと思いつつ、すいません、もう僕が計算ミスで想定外に話し切って、話し切れずに次のまたあれですよね。
ちょっと短めのスパンになるけど、来週ぐらいとかでももうストックはしていけるので、一旦出し尽くすところまで突き進むみたいな感じがいいかと思ってるんですが、最後に次の予定だけ止めて。
話者2:そうなんですよ、僕が次が2日、2日以降2日か3日っすね。
話者1:2日だと例えば午前中とかも大丈夫。
話者2:大丈夫です、2日だったら。
話者1:きょんきょん午後はダメだよね。
話者2:僕たち。
話者1:うんダメだね。
話者1:午前中はあれ東京にいるけどあれだよね。
電波があまり良くないかもしれなくない。
僕外にいるよ。
大丈夫?
話者2:東京の京都の実家にいるんですね。
話者1:はいはい。
僕ちがう2、3、5、6がいけるのが。
2、3、5、6。
でも2の午前中かさ5かどっちかぐらいじゃない京都。
話者2:そうだね。
早いほうがいいよ。
巻きでやったほうがいいよ。
話者1:そうっすね。
明日とかも僕。
明日も時間あるけど。
明日はどうしようか。
僕はあんま土日平日関係ないので。
どっちでも皆さんに合わせます。
話者2:うちも関係ないけど。
それじゃだったらさ。
午前中のさ。
明日の午前中なら大丈夫。
話者1:どうすか。
10時から昼ぐらいまで。
話者2:あ、いける。
大丈夫です。
話者1:じゃあもうちょっとこの流れで。
ほったらうちに。
どうする?
なんか咳してたけど大丈夫?
話者2:なんかね非観視炎出ちゃってんすよ。
話者1:非観視炎なんだ。
なんかわかんないけどずーっと。
話者2:全然大丈夫です。
話者1:本当?
また喋る時間長いかもしれませんね。
話者2:そうそう喋るのがずっと喋ってる。
ほっといてもずっと喋ってるんで僕。
話者1:明日28日10時でいい?
どうですか。
話者2:10時で。
えっと待ってくださいね。
10時28日10時。
ちょっと待ってくださいね。
明日の時点でもう一回今。
なんかが入ってたかも。
明日ダメだったら。
明日ちょっと明日ダメだ俺。
話者1:あーダメ。
話者2:ごめんごめん1個忘れてた。
あったら。
2の。
2の午前中でもいいですか。
話者1:うん。
ちょっと待って。
明日午後だったらいけるけど。
午前ダメだすいません2日にしましょうか。
話者2:じゃあ2日にしましょう。
話者1:2日のじゃあ午前だね。
2日のじゃあ10時からにするきょんきょん。
話者2:10時で12時で大丈夫か。
話者1:はい10時12時。
いいよね。
きょんきょん。
それもうちょっと早くする。
いやでれんぱが心配なだけなんだけど。
なんとかしようよ。
じゃあさ。
2日ではい。
話者2:2日にしましょう。
話者1:はい。
あれだったらまた。
ちょっとそうですね。
ちょっと5日も空いてらっしゃる。
話者2:はい5日も空いてます。
話者1:じゃあ。
5日はねえと午後です。
5日午前中がダメでした。
話者2:あ午後ねはいわかりました。
話者1:うん。
そうね。
まあどうしようか。
5日も確保しときます。
なんか予定入っちゃうかもしれないですよね。
前のために入れときましょうか。
話者2:うん。
そうですね。
次回の状況でまた多少リスクとかあるかもしれないけど。
もう。
5日で5日は。
何曜日だっけ。
話者1:日曜日。
何時だったら大丈夫。
話者2:13時以降だったら大丈夫ですね。
話者1:じゃあ普通に。
どうする13から15ぐらいにしとく。
早いほうがいいか。
話者2:うんそうだね。
話者1:いいですかそれで。
話者2:はい大丈夫です。
話者1:じゃあ。
5日は13時から。
2時間にしましょう。
話者2:はい。
それぐらいやってみて。
どこまで話が進むかというか。
完結するのか。
まだ説明が必要かみたいな。
ちょっとやってみて。
話者1:はいわかりましたね。
今日話すべき話だった話を絶対に。
次でやらなきゃいけないですね。
話者2:そうね。
愛の世界をもう少し深く知りたいと。
まだ今日全然出てこなかった空海とか。
もちろん歴史全般ですかね。
それで。
れっくんの世界観的な意味での歴史を。
一通りちょっと話していただかないとって思う。
話者1:どっちか選びましょうかね当日。
頑張ったら2時間で喋れる気もする。
アワーアイの文脈と。
そこからエビス信仰の話ぐらい。
話者2:アワーアイの文脈からエビス信仰とか。
あると思う。
海洋攻撃とアワーアイと。
エビス信仰の話と。
空海。
空海は別枠になるのかな。
空海どうかな。
話してみないとわからないですね。
愛の中で環境問題って言ったら。
産業革命明治時代の。
文明改革産業革命。
あと鎖国の開国か。
多分そういうところで愛が衰退していった理由と。
まず開国してインドの安価な。
愛が入ってきたりとか。
化学線量に依存しているところ。
環境的な問題というか。
なぜ愛を守っていかなきゃいけない。
天然愛を守っていかなきゃいけない理由とか。
っていうところも多分愛の中に入ってくるのかなと。
話者1:次回は愛の話に向かうことを。
なるべく頑張って話して。
今日の流れもあるから今度は愛がいいですね。
そういう環境今日の流れで言うと。
環境問題とかに関して。
何がどう起きてどうなってどうしていけばいいのか。
みたいな話ができたらと思います。
そういうのも何を話して次何を話さなきゃいけないのか。
忘れるから早いほうがいいですよね。
間置かずに。
ちょっと余韻が残っているほうがいいので。
明日できたら終わったんですけど。
2日にまた。
話者2:2日でも大丈夫だと思います。
お願いします。
話者1:チェックアウト。
チェックアウトでどうですか。
今日の2時間を振り返って。
僕はもう。
なるほどこんな感じかって感じでした。
自分の。
ソラさんの。
プロジェクトであることを忘れて話してしまってすいません。
っていう感じですけど。
この機会だからとりあえず。
ゼロから100まで話せるなら話したいみたいな。
どっかでそういうのがあってのを多分話しすぎました。
すいません。
ありがとうございます。
次回もよろしくお願いします。
話者2:ありがとうございます。
この段階で僕もチェックアウトすると。
あんまり枠を作らない。
話者1:そうそう。
トラちゃんの本ですら忘れてるほうがいいかもって感じは。
あとでそこに当てはめるくらいのほうが。
結果的にいいアウトプットになって内容も。
共有できるからっていうので。
同じ調子で次回も話していただいて。
僕らもそれにレスポンスする感じで。
やりましょうという。
ありがとうございました。
話者2:ありがとうございます。
普通に聞いてて楽しかったので。
あんまり何を聞かなきゃっていうのも全くなくて。
普通に話してくださっててすごいありがたいです。
すごい興味深い話ばかりだったので。
個人的なエピソードで。
聞いていただいてありがとうございます。
トラちゃんのリアクションがとても上手なので。
ありがたかったです。
またよろしくお願いします。
話者1:また改めてお願いいたします。
もろもろになります。
ありがとうございました。
失礼します。